2020年9月13日 礼拝説教要旨

正しい人はいない 

 

三好 晴夫 牧師

 

ロ-マの信徒への手紙 第3章9-20節

主題聖句:既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるので

す。                   

ロ-マの信徒への手紙 第3章9節

 

「福音」。神は、私たち人間を愛され、その御子キリストを通して罪から救い出して生かしてくださるという救いの知らせです。その救いの有り難さについて、私たちはよくわかっているでしょうか。

 

この福音のすばらしさ、救いの有り難さはよく分かるために、私たち人間の側に、深刻な問題があり、自分が罪汚れた者であることに気づくことが必要です。それほどに、私たち人間には、罪があり、その結果として神から裁かれるものであったのです。それゆえ、そのような私たちを神は見捨てられず、愛して救いを現してくださったのです。有り難いことです。

 

ローマ書1章18節から3章20節において、私たち人間の罪の現実がどんなものかが記されてきました。異邦人もユダヤ人も皆、自分たちを創造された神を無視して、自分勝手に歩んできました。「皆、罪の下にあるのです」。「罪のもとにある」とは、どの人間も、罪の力に支配され、罪や欲望に振り回されている状態にあるということです。

 

具体的には、13節以下に記された言葉の通り、人の会話は、不潔で腐っていてまるで墓穴からもれる悪臭のようです。人の言葉には、恐ろしい毒蛇のような毒があります。人の足は、人の口や頭や体を持ち運んで、悲惨な恐ろしい結果を起こしてしまう。「彼らの目には神への畏れがない」。パウロは、すべての人が、そして私たちも、この言葉の前に、そのような罪人だと指摘します。私たちを救おうとされる神に、救いを求めよう。

2020年9月6日 礼拝説教要旨

神の真実 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第3章1-8節

 主題聖句:決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。         

ロ-マの信徒への手紙 第3章4節

 

ローマ2章で、ユダヤ人も、その行いに従って神の裁きを受けることになるとパウロは語りました。彼らユダヤ人は、自分は神に選ばれた民であり、自ら正しい者であると自負していたのです。しかし、神の言葉に従っていないならば、神の前に正しいとはされず、裁かれるとパウロは彼らを責めたのです。

 

それを聞いたユダヤ人の反論を、パウロはここに取り上げます。その一つが3節にあります。要約すると、もし自分たちの中に不誠実な者がいたならば、その不誠実な態度のゆえに、神の人間への約束は壊れてしまい、神の誠実は無力になってしまうのですか。それなら人間がその約束を破らず守れるようにすることはできなかったのか。人間の不誠実さで、神の誠実はもうなくなってしまうのですか、という反論です。どうも自分の中にある不平不満を、このような形で吐き出しているのでしょう。神のことがよくわからず、神に頼ろうとする思いの弱い人の主張のように思えます。

 

パウロの答えは4節「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」 たとえ人間が神との契約を破り不誠実な状態になったとしても、神は誠実であり続けられるのだというのです。人間同士の契約ならば、契約の当事者の一方が違反した場合、その信頼関係は壊れます。契約を守らなかった罰を支払わなければならない。しかし神は人に裏切られても約束に誠実にあり続けられるお方です。

2020年8月30日 礼拝説教要旨

 霊による心の割礼

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章17-29節

 

主題聖句:内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。

                               ローマの信徒への手紙 第2章29節

 

自らを正しい人間だと自信を持っている人にも、罪がある、神に悔い改める必要があると、教えているところを学びます。ローマ2章17節以下で、ユダヤ人に向けてあなたは自らをユダヤ人と称し、律法(神の契約として与えられた戒め)を持っていることに頼り、神との特別な関係にあり、自分は神の御意志をわきまえていると自負していました。それゆえ、他人に律法を教えていくのですが、自分はその教えを守っていなかったのです。そういう他人に厳しく自らに甘い態度の姿を、パウロは鋭く指摘します。

 

また、彼らユダヤ人は律法(神の御意志を示す戒め)を持っていることと共に、割礼を受けていることを、神の民であるしるしと誇っていました。割礼は、男性の生殖器の包皮を切って取り除く儀式です。この割礼を受けていることを彼らは神の民のしるしだと自負していたのです。

 

しかし、パウロは言います。割礼が有効になるのは、割礼を受けていること自体ではなく、律法を行うことにある。律法を守っていないならば、割礼には意味がない。だから、外見上の割礼は割礼ではない。むしろ、霊によって心に施された割礼こそ割礼であると言うのです。肉体に割礼のしるしを持たなくても、主イエスの十字架の恵みに触れて生まれ変わって新しい心が与えられたものが、心に割礼を受けた者なのです。それは御霊によって主イエスの恵みをいただくとき新しくされるのです。

2020年8月23日 礼拝説教要旨

  心に記された律法  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章12-16節

 

主題聖句: たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

                             ローマの信徒への手紙 第2章14節

 

神は、終わりの日に、おのおのの行いに従ってお報いになられると、ローマ書は教えています。その人の心と行いに従ってお裁きになられるのです。具体的にどのような裁きなのかについて、12節で、神の律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれるが、律法を知らないで罪を犯した者は、どのように裁かれるのか、14節15節に記されています。

 

「律法」とは、神が特別に選んだ神の民にお与えになった法です。その選ばれた民には大切な神の御意志を示すもので大切にされていました。しかし、異邦人(ユダヤ人から見て外国人)である私たちは律法を知りませんし、持ってもいませんから、律法を行うはずがありません。しかし、律法を知らなくても、律法の中に命じられている大切な戒めの一部を知っていますし、行っています。例えば、安息日規定をしらなくても、毎日勤勉に働いています。姦淫してはならないという戒めを知らなくても、夫婦の信頼関係を大事にしなければならないと思っています。律法を厳密に知らなくても、人間として守るべき原則として受け止め行っています。それが、15節の「律法の要求する事柄がその心に記されている」ということです。私たちの心に神の律法の要求することが記されて、それが、私たちの法となっているのです。神は分け隔てなく正しく裁かれるのです。キリストを思い、律法を、神の言葉、神の御心として行っていきたいものです。