投稿者: matsuyama-alliance
2012年6月10日 礼拝説教要旨
主題聖句:「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」
フィリピの信徒への手紙4章5節
説教主題「主は近い」
「広い心」は口語訳や新改訳では「寛容」「寛容な心」とそれぞれ訳してあります。個人の翻訳でも「温和さ」「寛大さ」などと優しいイメージを連想させるものが多いのです。しかし、人の徳目の一つのように考えられがちの「広い心」も、その根拠は主イエス・キリストがすぐ近くにおられることにあります。“主の近さ”とは何か?近いだけではなく、一緒にいて下さるのです。どのように一緒にいてくださるのでしょうか。罪を赦すことにおいて、深く私たちと結びついてくださいます。
パウロの願いはこうです。…キリストがあなたの罪を赦すこれ以上ない寛大さを示して下さいました。あなたはその憐れみを受けた見本です。こんなに多く神から罪を赦していただいたのですから、主イエスが「広い心」をお持ちであることを、言葉と生き方とをもってみんなに証しないさい。…つまり、キリスト者の“広い心”の源には罪人を赦す主イエスの深い愛の心があることを主張しているのです。
「広い心」を「理に叶った」と翻訳することも可能だそうです。理に叶って一つの筋を通す。義しさ(ただしさ)を貫くのです。「広い心」「寛容」というと「大目に見る」…つまり筋を通さなければならないのに「いい加減でごまかす」ということにもなりかねません。我々は無責任な“曖昧さ”を好みます。しかし、人間の罪は徹底的に糾弾されなければなりません。だからこそ主イエス・キリストは十字架について下さいました。十字架に「理に叶った」神の「広い心」が現れているのです。
2012年6月3日 礼拝説教要旨
主題聖句:「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」
フィリピの信徒への手紙4章4節
説教主題「喜びの確認」
この手紙は“喜びの手紙”と呼ばれています。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と既に(2章17,18節)でパウロは述べています。感情は最高潮です。交響曲にはテーマ(主旋律)があって、それが少しずつ調子を変えて、全体の中に時折現れます。それと同じように、この手紙の底流には “喜び”が基調音として流れているのです。
「喜びなさい!」と言われると、喜びを押し付けられているように感じます。「喜ぼうと思って簡単に喜べるくらいなら、何も苦労はしません。喜べない状況の中にいるから悩んでいるのじゃないか!」と反発を感じるかたもおられるでしょう。だからといって「無理に作って、喜んでいるかのように見せかける」のは虚しいことです。
パウロは第3章から「主にあって喜べ!」と強調します。空っぽの井戸から水を汲み出すことは出来ません。こんこんと湧き出る泉から尽きない水が流れ出るように、キリストという源泉が喜びを生みます。牢屋につながれ、明日は処刑される身の上なのに、どうしてパウロ先生は喜べるのだろう? ! とても喜べるどころではないはずなのに…。
喜ぶことのできない状況の中でこそ、その現実を突き破って喜ぶことはできるはずです。「キリストを信じている者は喜べる!」キリスト者は喜べる現実の中に置かれています。この命令は、押し付けではなく、喜べる現実にいることを悟らせ、信者を喜びの中に招いているのです。
2012年5月27日 礼拝説教要旨
主題聖句:「わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」
フィリピの信徒への手紙4章2節
説教主題「喜びの確認」
エポディアにしてもシンティケにしても、この箇所にしか出てこない固有名詞です。二人が婦人でフィリピの信者の交わりをつくりあげるのにパウロと共に戦ったということくらいしかわかっておりません。(3節)ただ、どうも二人は仲違いしているようで、「主において同じ思いを抱け」と名指しでパウロから勧められています。良いことで手紙に名前を書かれるならまだしも、同じ思いが持てないことで勧められると、恥ずかしかったし、反論したい気持ちもあったかもしれません。その後2000年、キリストの教会で、このような形で名が残ることになるとはこの二人、夢にも思わなかったでしょう。「あの二人仲が悪かったんだって」と言われるより、「あの二人はお互い同士を愛しあい、赦しあう関係だった」と言われる方が良いに決まっています。
パウロは、自分だけが罪を犯したことがなく、公正な裁判官の立場に立って、過ちを糺してやろうとしているのではありません。自分も主イエス・キリストに罪赦されたものとして、勧めているのです。「勧め」は「お説教」をする(ガミガミと小言を言う)ことではなく、「慰める」のです。この二人の婦人が勧めの言葉を受け入れてくれるように「真実な協力者」に助力を求めます。高みから叱られただけでは、二人は心を閉ざし反発するだけかもしれません。この「協力者」とは「共にくびきを負うもの」という意味があります。この婦人たちだけを悪者にせず、執り成し助ける仲間の存在が、「慰め」には必要なのです。
2012年5月20日 礼拝説教要旨
主題聖句:「このように主によってしっかりと立ちなさい。」
フィリピの信徒への手紙3章20節
説教主題「しっかり立て!」
赤ちゃんはハイハイからつかまり立ちをして、トコトコと歩き始めます。初めはおぼつかなくて、今にも転びそうです。見ている方はハラハラします。しかし、歩いているうちに筋力が鍛えられ強くなるのか、手すりや支柱にすがらなくてもしっかり独り立ちできるようになります。
「(あなたがた)は立ちなさい」と命令法で訳されている元の単語は「(あなたがたは)いま立っている」という直接法と同じ綴り字です。綴りからだけでは区別がつかないので、「あなたがたは今立っています」と訳しても差し支えありません。主イエス・キリストに支えられてしっかりとすでに立っているのです。キリストが杖となり、柱となってくださいます。自分の力で無理に踏ん張って立つ必要はありません。「主によって」と書いてあります。むしろ自分の力を捨て、主イエス・キリストの力によってのみ生きようとするかどうかにすべてがかかっているのです。
何もキリスト様のお世話にならなくても、自分の力で充分に立っていけるとうぬぼれていると、足元を救われてしまいます。〝危ない〟と気が付いていなければさらに性質が悪い。
キリストによって救われ、キリストの力によって生きている人のなかには 目に見えない〝キリスト〟というしっかりとした芯棒が大地から大空に向かってそびえています。「キリストに支えられてあなたがたは既に立っている」「もっと、このお方に全体重を預け、この方によってだけ、これからも立って歩いていきなさい」と言われているのです。