2020年10月4日 礼拝説教要旨

 罪を償う供え物

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第3章25-26節

主題聖句:神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。    

ロ-マの信徒への手紙 第3章25節

 

神が私たちに与えられる救いは、「義とされる」ことです。罪のゆえに滅びそうになっていた私たちを、神がキリストの贖いの御業によって償い、解放してくださったという救いです。

 

この救いの有り難さは、自分は正しい人間であり、悪い人間ではないと思っている人には分かりません。しかし、自分がいかに神から離れ、罪を犯しているか、裁かれてもおかしくない者と思う人には良く分かります。裁かれないように神は私たちを救い出してくださるからです。

 

この救いは、神の恵みにより無償で与えられるのです。ということは誰かが支払ってくださったということです。神が支払って下さったのです。「神がこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(25節)。この「罪を償う供え物」とは、「贖いの座」という意味です。「贖いの座」は、旧約時代、神を礼拝する場所であった幕屋(神殿)の中の至聖所にあって、契約の箱の上蓋に位置するところでした。そこに神が臨在されており、その場所で、大祭司が神の民を代表して、動物の血をその贖いの座にふりかけ、贖いの業を行ったのでした。その贖いの業を本当の意味で行われたのが、キリストです。キリストは真の大祭司としてご自身の血によって贖いを成し遂げられたのです。この贖いによって、私たちは裁かず無罪とされるのです。このように神がキリストを通して救いを成し遂げられたことを受け入れ信じるとき、頂くのです

2020年9月27日 礼拝説教要旨

 神の義が示された  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第3章21-26節

 

主題聖句:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

ローマの信徒への手紙  第3章21節

 

「ところが今や…神の義が示されました」と3章21節の言葉が始まります。何か突然、夜が明けたような気がします。そう感じるのは、これまで読んできた1章18節から3章20節までには、夜のような暗いことが書かれていたからです。人間の罪の現実について深く掘り下げて語られていたからです。そこには、私たち人間はすべて、罪人であることが言われていました。まさに夜のような光のない状態です。

 

人間が律法によって、正しいことが何かを分かったとしても、自分の弱さのゆえに、その正しいことを自分で行うことができないのです。そのためにひどい状態になってしまい、神から裁かれても当然な状態でした。それが私たち人間の現実の姿です。

 

ところが今や「律法とは関係なく…神の義が示されました」と言うのです。これまで知られていた神の義とは、律法という、神様が人間に示された正しいことを行うことによって神の前に義とされることでした。でも、その方法では、正しいことを行おうとしても守ることができず、罪の意識が生じるだけです。ところが今や、律法とは関係なく、人間が神の前に義とされる道が示されたのです。それは、憐れみ深い神が、御子イエス・キリストを十字架につけて、私たちの負わなければならなかった罪の裁きをキリストに負わせてくださったという救いです。ゆえに、私たちは神との正しい関係に回復されるのです。この救いはキリストを信じる時に与えられます。

2020年9月20日 礼拝説教要旨

 復活の望み 

三好 晴夫 牧師

テサロニケの信徒への手紙 一  第4章13-18節

 

主題聖句: イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 

テサロニケの信徒への手紙 一 第4章14節

 

私たちは、先に天に召された愛する家族を覚えて、その方々の歩んだ生涯、主に頼って過ごされた信仰の日々を覚えてここに集まっています。

 

天に召された方々は、ご遺族にとって愛する家族です。教会員にとっては一緒に歩んだ信仰の先輩であり、信仰の友です。これらの方々と過ごした日々を思い返すと、昨日のことのように思い、悲しみに溢れます。

 

そんな悲しみの中にある私たちは周囲の方々の温かな言葉や慰めを受けて慰められてきたことでしょう。今日は、私たちの悲しみを和らげる望みが主の言葉にあることを覚えたいのです。それは、主イエス・キリストにつながることによって与えられる望みです。

 

キリストにある復活の望みは、この世で過ごしていた私たちの肉体が滅びても、主が備えられた永遠の家に迎えられることです。その家に迎えられて、世を去った信仰の先輩たちと共に終わりの日の体の復活を思って待っているのです。主を信じて過ごした愛する家族は、苦しみの中も、主が守って天に迎えてくださるとの約束を思い、主の命の中に生かされると信じて過ごされ、そして今、主のもとで主と共にあると信じます。

 

そのように、私たちも、キリストが復活されて天に上げられたように、キリストを信じて、キリストと共に死から復活されて主と共に住むという約束を覚えて、お互いに慰め合い、主に支えられていきたいものです。