投稿者: matsuyama-alliance
2014年6月8日 礼拝説教要旨
神からの慰め
政所 邦明牧師
サムエル記下 第18章28-32節
ローマの信徒への手紙 第10章13-16節
主題聖句:「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、…」
サムエル記下 第19章1節
何事も無くいろいろなことが円滑に進んでいるように見えても、ちょうど小川につきだした小石が流れをせき止め、淀んだ場所を作り、そこに小枝や木の葉が溜まっていくように、事件が起こります。ひっかかり、つっかえ、難しい問題にぶつかるのです。何もこちらが望んだわけではありません。向こうの方から飛び込んできます。「うまく事が運んでいるようでもね。神様が何か起こすよ!」と親友が話してくれました。「自分に都合の良いことばかりは続かないからね。その時信仰が試されるのだ。」これでもか、これでもか、といった具合に試練が襲ってくる中をかいくぐるように耐えている友人の言葉には真実が籠もっていました。
作戦参謀として招いたアヒトフェルの提案に王子アブサロムの心は動きませんでした。冷静に考え、その提案を受け入れ、実行さえすれば、父ダビデとの戦いに有利な展開がみられたかもしれません。ところが、アヒトフェル案の不採用」が結果的に、アブサロムを敗戦に至らせ、死を招くことになります。「戦略の良し悪しを見極める力がアブサロムにはなかった」といえばそれまでです。しかし、聖書はそうは言いません。「アヒトフェルの優れた提案が捨てられ、アブサロムに災いがくだることを主が定められたからである」(17章14節)“運がいいとか悪いとか”すぐに私たちは言います。ところが成り行き任せの“運命”などはなく、ただ神の配剤(ほどよく整えること)のみがあるのです。私たちの身の回りに突然起こる試練も、神のご配慮の中で、ご自分の御心を行わせるために与えてくださるのです。
2014年6月1日 礼拝説教要旨
人の知恵と神の知恵
政所 邦明牧師
サムエル記下 第15章7-16節
サムエル記下 第15章30-37節
主題聖句:「ダビデは、『主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください』と祈った。」
サムエル記下 第15章31節
落ちぶれた時、あるいは逆に成功して有頂天になった時、その人の真価が問われるのではないでしょうか?
息子アブサロムの反逆のため、ダビデは、エルサレムを離れ、逃亡生活を余儀なくさせられました。100%だれからも支持を受ける人などひとりもおりません。ひとつの政権ができると必ず不満を持つ人々が現れるものです。国内を統一したとはいえ、「一旦事あらばダビデの足元を救ってやろう」とする人がいても不思議ではありません。利害が一致すれば、徒党を組む人々も出てくるでしょう。担ぎあげた人々にとって、自分たちの主張を通すのに、アブサロムは格好の人物だったのかもしれません。若くて操りやすいからです。
内心ハラハラして、アブサロムをダビデは見ていたのではないでしょうか?「利用され、価値が無くなったら捨てられるに決まっているのに、それがわからないのか!」と息子を心配していたはずです。厄介な人物がアブサロムの側につきました。かつてダビデの顧問官をしていたアヒトフェルです。裏切って敵方に行ったのです。“これで百人力を得た”くらいにアブサロムは思ったでしょう。しかし、ダビデは祈ることを知っていました。「どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」人間の策略など、神の知恵に比べれば取るに足りません。神が世の知恵を愚かにされるからです。危機に際して祈ることをダビデは知っていました。
その事こそが、ダビデの信仰のあり方の真骨頂だったのです。
2014年5月25日 礼拝説教要旨
神の前に頭を垂れよ
政所 邦明牧師
サムエル記下 第13章20-39節 コロサイ人への手紙 第3章18-25節
主題聖句:「アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた」
サムエル記下第13章39節
イエス・キリストの祖先になぜダビデが選ばれたのでしょうか。サムエル記の下巻に入って、罪を犯すひとりの弱い人間の姿をダビデの中に見てきました。確かに優れた信仰者にダビデは違いありません。しかし、揺るがない信仰にしっかり立つというより、弱さために失敗し、醜さの中を“のたうちまわる”のです。そして罪に悩みながらも、神に憐れみを乞い、赦しを願います。そのようなところはどの信仰者にも共通なのではないでしょうか。
イエス・キリストとダビデが違う点があります。主イエスは罪を侵されませんでした。しかし、その他はわたしたち人間と全く同じで、わたしたちの弱さに、この方は同情できない方ではありません。 サウルから妬まれて苦しみ、姦淫を犯し、人を殺して自分の罪を隠そうとしました。その結果、生まれた赤ちゃんを亡くす悲しみもダビデは経験するのです。そのような人間の子孫にキリストがなってくださる事自体慰めではないでしょうか。キリストは罪が代々受け継がれるような系譜(系図)の中に入ってくださったのです。それは次の御言葉の実現です。「罪と何のかかわりあいもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」(Ⅱコリント5:20)わたしたちの弱さを知ってくださる方が、同情して下さるだけでなく十字架にかかって身代わりに死んでくださったのです。 敵対する者から妬まれる。自分の罪の弱さ、親としての悲しみを持つ。それは、だれでも経験しそうです。これらの中で苦闘したからこそ、わたしたち人間は救いを求めてイエス・キリストに近づくのではないでしょうか。