投稿者: matsuyama-alliance
2014年9月14日 礼拝説教要旨
新しいぶどう酒は新しい革袋に
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第2章18-22節
主題聖句:「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」
マルコによる福音書 第2章19節
多くの宗教において〝断食〟に類する苦行を求められることがあります。「普通以上の真面目な生活をしなければ、救われないし、しっかりした信仰生活を送っていることにはならない」と多くの人が考えます。
わたしたちの教派、教会で、〝断食〟を信者さんに強要することはありません。それは「花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」と言われた主イエスの言葉に根拠を置いているからでしょう。〝断食〟は救われるための絶対条件にはならないのです。
信仰生活を〝婚宴〟に主は譬えられました。花婿は主イエスさまです。私たちは客として披露宴に招かれています。その宴席に喜びが満ち溢れるのは、ごちそうが並べられ、余興で盛り上がるからではありません。それより花婿と一緒にいることが喜びの源なのです。この主イエスと私たちとの関係を抜きにして、信仰生活を考えることはできません。
〝断食〟など、宗教的に良い行いと考えられるものがあります。苦行、禁欲、修行などがそれに当たります。善行がイエス様との深いつながり作るなら、多いに奨励しなければなりません。しかし、〝断食〟がそのような絆を、果たして作ってくれるでしょうか?
「神の国はきた」といって主イエスは宣教を開始されました。重い皮膚病の人、徴税人、罪人との交わりにも積極的に入っていかれました。これらの人々は主イエスが一緒にいてくださるから嬉しいのです。禁欲の〝断食〟より、祝宴に譬えられる方が、この喜びをよく表しているではありませんか。
2014年9月7日 礼拝説教要旨
政所 邦明 牧師
「レビの召命」
エレミヤ書 第1章4-10節
マルコによる福音書 第2章18-22節
主題聖句:「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 マルコによる福音書 第2章17節
再び主イエスは湖のほとりに出て行かれます。以前、湖のほとりで4人の漁師を最初のお弟子として招かれました。このような場所で主イエスは誰かとの新たな出会いをなさるのでしょうか。4人の漁師はごく普通の善良な労働者です。漁師という職業のゆえに、〝罪人〟と後ろ指をさされ、非難されることはなかったでしょう。4人が弟子とされる時、彼らが神の前にどのようであるか、“清くて汚れのない”人たちであるかどうかは問題にされません。「従って来なさい」と主イエスが声をかけられたから、従っただけです。
ところが重い皮膚病の人(マルコ1:40)も徴税人も、その病の性質や職業からして、当時の社会から〝罪人〟だと決めつけられ、蔑まれた人々でした。確かに同胞から血税を搾り取り、外国のローマ帝国に徴税人は上納します。ついでに役得と称して“上前もはね”るのです。だから、この人達がユダヤ社会の〝敵〟または〝仇〟とみなされても仕方がないのかもしれません。ユダヤ人の掟からすれば、徴税人は毛嫌いされるでしょう。しかし、4人の漁師たちやファリサイ派の律法学者に比べて、徴税人は神の前にことさらに罪が深いのでしょうか。そんなはずはありません。神の前には皆等しく罪深いのです。そのような人間すべてを救うために、主イエス・キリストは来てくださいました。「罪人を招くためにきた」と言われます。「自分は良いことをしない代わりに、神に裁かれるほどの悪いこともしない人間だ」と自分のことを思っています。しかし、その私たちに神の前における姿を突きつけ、「そのあなたを救うために来た」と主イエスは言われるのです。
2014年8月31日 礼拝説教要旨
神の前にひとり立つ時
政所 邦明 牧師
創世記 第32章23-32節
主題聖句:「…何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。…『祝福してくださるまでは離しません。』」
創世記 第32章25,27節
双子として生まれたヤコブは、出産の時、先に生まれた兄エサウのカカトを掴んでおりました。これは、兄を押しのけ〝足を引っ張る〟その後のヤコブの生き方を象徴的に現しています。
ずる賢い手を使い、兄から長男の特権を譲り受け、目が薄くなった高齢の父イサクを騙します。兄になりすまして、長男だけが受けられる「祝福の祈り」をも奪ってしまったのです。「何もかも思い通りになった」とヤコブは思ったでしょう。ところが兄エサウの大変な恨みをかいます。そこで、身の危険を感じたヤコブは、伯父を頼って外国に逃げることになりました。
家畜を増やすことに才能を発揮し、羊や山羊をたくさん持つようになると、今度は伯父から妬まれます。ある時、「故郷に帰りなさい」とヤコブに神は言われました。兄の元を去ってから20年。長い歳月は経っても「兄さんはまだ怒っているだろうな」と思います。そこでおびただしい数の羊と山羊と贈り、兄の怒りをなだめようとします。しかし、そのような小細工では本当の〝和解〟は与えられないと気が付いたのでしょう。たった一人で、一晩必死に祈ります。聖書はそれを〝神との格闘〟と表現しました。足の筋を痛めしまうほど集中して祈ったようです。ホセア書ではヤコブは神に〝泣いて恵みを乞うた〟(第12章5節)とあります。兄の足を引っ張る生き方はヤコブの反逆でした。神の定められた次男の立場に満足できなかったのです。神と争い、神の顔をまともに見られなくなっていたヤコブが、神と〝顔と顔〟とを合わせ、そこからエサウに面と向かう勇気が与えられたのです。
2014年8月24日 礼拝説教要旨
名を告げる神
政所 邦明 牧師
出エジプト記 第3章1-17節
マルコによる福音書 第3章13-19節
主題聖句:「あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。」
出エジプト記第3章15節
神の山ホレブで、神はモーセにご自分を現されます。イスラエル人として生まれたモーセは、事情により外国ミディアンの地で40歳から80歳まで羊飼いとして生活をしていました。このモーセを神はお立てになります。エジプトからイスラエル人を連れ出す指導者に召されたのです。
「モーセよ、モーセよ」と親しく名を呼んで、近づいて来られる神は、ご自分がモーセの「先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と名乗られました。同胞イスラエルはエジプトで、強制労働をさせられています。その同胞イスラエルを、苦しみから救い出すように神は、命じられるのです。そのためには、エジプトの王ファラオと対決しなければなりません。自分にそのような大役が務まるかどうかモーセは不安でした。そこでたまらず、神の名を尋ねます。不遜なことのようにも思えます。しかし、〝どこの何と言う神様〟が命じられたのかをハッキリと伝えなければ、イスラエルの人々は自分を指導者として信頼してくれないだろうと思ったのでしょう。
最終的には神は〝主〟(ヤーウェ)という名を明かされます。その前に「わたしはある。わたしはあるというものだ」と言われました。“名を知る”とは相手の存在を自分の手のうちに治めることを意味します。人が神の名を知れば、悪用しかねないことも起こるでしょう。しかし、神は人間が自由に操れるお方ではありません。自らのご意思でモーセをお選びになりました。「ある」には「ある者を○○にならせる」という意味があります。無力なモーセに力を与え、指導者にふさわしいようにされるのは神ご自身なのです。