2014年10月5日 礼拝説教要旨

弟子を招く

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章13-19節

 

主題聖句:「イエスが…これと思う人を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。…彼らをそばに置くため、また、派遣して宣教させ…」

マルコによる福音書 第3章13

                                    

「これと思う人を呼び寄せ…」とあります。主イエスが多くの人の中から選び抜かれたのです。ワールドカップの日本代表選手は「代表に呼ばれた」と表現します。どんなに選ばれたいと思っても、監督にその気がなければ無理です。「選抜」は選ぶ権利のある人の意志が拠り所となります。

 

「呼び寄せる」…良い日本語です。主イエスの方にご自身が12人をグイッと引き寄せるイメージがあります。弟子たちが少々ためらっていても、主の引っ張る力があまりにも強いため、抗えない印象を持ちます。嫌な人から強引なことをされると迷惑でしょう。しかし、イエス様ならそんなことはありません。主イエスのほうがグーンと距離を縮めてくださるのです。「そばに」という言葉が繰り返されています。主イエスのおそばにおらせていただけるなら、どんなに幸いでしょうか。「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」と言われたお言葉を思い出します。

 

サッカーであれば〝選抜〟の目標は大会での優勝です。何もしないで選手と一緒にいるためではありません。しかし、12弟子選抜の目的は「派遣して宣教させる」以前にわざわざ「そばに置くためだ」とマルコは明言しました。順番としては「そばに置くため」が優先され、宣教より大事なのかもしれません。弟子たちを使って組織拡大を図ることが目的ではなく、ただそばに居てくれれば良いということでしょう。主イエスが、淋しいからではではありません。相手が何もしなくても“ただ一緒にいるだけで嬉しい”のが愛だからです。愛から出発してこそ、宣教も意味を持ってくるのです。

 

2014年9月28日 礼拝説教要旨

安息日の主

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章1-6節

主題聖句:「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

マルコによる福音書 第3章4

                                    

主イエスの立ち振舞に対して批判的に観察し、口出しをする人々が現れます。ファリサイ派です。主イエスや弟子たちに近づき、「あなたがたの行動は律法に反するのではないか」と質問をしてきます。…①主イエスが徴税人や罪人たちと食事までして交わっておられる②安息日であるのに弟子たちが麦の穂を歩きながら積むのを主イエスは放任しておられる。…これらの行状はファリサイ派の判断基準に照らすと、律法違反に当たります。主イエスの振る舞いは許しがたいのです。特に安息日の掟にこだわっていました。

 

安息日はもともと人に命を与え、恵みを与えて救うために神がお定めになったものです。言葉を変えて言えば、〝人を愛しなさい〟ということでしょう。ファリサイ派の人々は自分たちで作った掟にしがみつくあまり、安息日の根本のところがわからなくなっています。掟そのものが神にでもなっているかのようです。それは、ファリサイ派の人々だけの問題ではなく、わたしたちもまた、簡単に陥る罠のようなものではないでしょうか。

 

冒頭の御言葉は主がファリサイ派の人々にされた質問です。だれが考えても「善いことをし、命を救うこと」に、答えは決まっているように思えます。しかし、ファリサイ派は答えません。いや答えることができないのかもしれません。主イエスが安息日に人を癒やしても良いことになり、自分たちの主張と矛盾するからです。そこまで心が頑なになっていました。主イエスは、彼らの反発を恐れず、掟ではなく神の恵みによって生きるように、片手の萎えた人を癒されました。律法の呪縛から解き放とうとされたのです。

 

2014年9月21日 礼拝説教要旨

魂をあがなう主

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章1-6節

 

主題聖句:「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。」

 詩編第49編 16節   

                                 

今日は主のみもとに召された方々を記念して礼拝をささげております。「後世への最大遺物」という講演の中で、内村鑑三は〝勇ましく高尚なる生涯〟こそ、後の時代に残すことのできる最高の遺産だと申しました。「この世は悪魔の支配ではなく、神の支配にある」…このことを信じる信仰こそが〝高尚な生涯〟を生み出す…と内村先生は言われます。

 

「自分たちは神のご支配のもとに生かされ、また支配のもとで死に、今もその支配のもとにある」と在天者の方々が語っておられるように感じます。

一度死んでしまうと、巨万の富を築いた人でも、その大金を積んだところで、死んだ自分の命を買い戻すことはできません。これが、詩編第49編が語るところです。その事実に反対する人はだれもいないでしょう。

 

死んだ者のゆく世界を聖書では〝陰府〟(よみ)と言います。そこにいる死人を羊に喩えると〝死〟が羊飼いになるでしょう。その世界では〝死〟がのさばり、死人たちをいつまでも自分のもとに縛り付けておけると豪語しています。〝陰府〟では死が絶対的権力者であるかのように思えるのです。

 

この詩では、私の身も魂もすべて神が救い、〝陰府〟から解放して下さると告白しています。主イエスが甦られる何百年も前に、わたしたちをも活かして下さる復活の力を予め知っているかのようです。死者を〝陰府〟の手から救い出して下さる神の力はキリストの甦りの中にあります。先輩方はその福音を聞き、「自分たちもやがて復活する!」と信じて召されました。その信仰に続くようにと記念礼拝において、私たちを励ましておられるのです。