2014年11月16日 礼拝説教要旨 

政所 邦明 師

 

嵐の中に立つ

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第5章21-34節

主題聖句:「…主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」           

マルコによる福音書第5章19節 

                                   

マルコによる福音書を読みはじめて、次のことに気がつきます。汚れた霊、あるいは悪霊に命令して、取り憑いている人から出てゆくように主イエスが命令されると、そのとおりになるのです。しかも同じような出来事が何度も書かれています。〝悪霊追放〟は現代のわたしたちに、少なからず抵抗を覚えさせるのではないでしょうか。何か縁遠いように思われます。「心や精神を病んだ人を癒やされたのだ」と考え、簡単に片付けてしまうのです。しかし、自分の中に複数の互いにぶつかり合う力があって、それらが戦いあっているのをだれでも経験するでしょう。たとえば、自分を向上させ、善を目指して進もうとします。すると行かせまいとする逆方向の力が働き、足を引っ張ります。そして自分の望まないところに引っ張っていこうとするのです。

 

使徒パウロは自分の中に罪の法則があり、自分をとりこにしている事実を赤裸々に語ります。そして…望まない善を行わず、望まない悪を行っている。自分がしていることがわからない。何という惨めな人間なのだろう。(ローマの信徒への手紙第7章14~24節)…悲痛な叫びをあげます。

墓場に暮らし、たえず叫び、いてもたってもおれなくさせる力によってこの男はいつも苦しめられてきました。平静さにだれも連れ戻してはくれません。「この惨めさから救ってほしい」と叫び声をあげていたのです。

 

湖で、行く手を突風に阻まれても、向こう岸のガリラヤから、外国ゲラサの地まで主イエスは来られました。だれにもできなかった罪の力から男を開放し、神がしてくださった恵みの業を証しする器に造りかえられたのです。

 

2014年11月9日 礼拝説教要旨

神の国は成長する

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第4章26-34節

 

主題聖句:「…種は目を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」             

マルコによる福音書第4章27節 

                                   

「神の国は次のようなものである」(4章26節)とか「神の国を何にたとえようか。」(4章30節)と前置きをして、主イエスは語られました。それが、「成長する種」、「からし種」のたとえです。弟子たちには神の国の秘密が打ち明けられています。意識を集中し、耳をそばだてて聞けば、覆いが取り除かれて、たとえの方から語りはじめます。奥義が明らかにされるのです。植物の発芽の様子をひとコマひとコマ撮影してつなぎ、早送りをすると映画のようになります。数週間かかる種の成長が、あたかも1分くらいで起こったように見える映像をご覧になったことがあるでしょう。でも、草花の栽培に興味を持たないかぎり、生育の実態をつぶさに見ることはありません。気にも留めないあいだに庭の雑草は驚くほど、はびこっているものです。

 

「神の国は人知れず成長している」と主イエスは言われます。主イエスが宣教を開始され、病の人が癒やされます。しかし、世の中から病がすべて無くなったわけではありません。神の支配が始まったと言っても、世界規模から考えればささやかなものです。主イエスの伝道の後半から十字架への道がハッキリします。それに伴い、〝奇跡〟と言われる行為はめっきり少なくなります。最大の奇跡は罪の赦しのための十字架と復活です。イエス・キリストは人知れず、十字架への道を着々と進んでゆかれます。

 

わたしたちは心が鈍くて、神の推し進めておられる救いに気が付きません。「聞く耳のあるものは聞け!」と主は言われました。人間の手を借りず、救いの御業を主はなさいます。その業に私たちは目を開かれたいのです。

2014年11月2日 礼拝説教要旨

 

ともし火をかかげよ

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第4章21-25節

 

主題聖句:「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。」             

マルコによる福音書 第4章21

                                    

「ともし火を持って来るのは…」の、もとの言葉をそのまま日本語に置きかえると「ともし火はやってくるだろうか」(岩波書店訳聖書脚注)となります。この翻訳だと、ともし火がまるで人間みたいです。足が生えてトコトコ歩いてこちらへやってくるかのような印象を与えます。したがって大部分の日本語訳が「ともし火を持って来る」と人間が持ち運んだように訳します。

 

しかし、主イエスがご自分を「ともし火」に譬えられたと考えると、理屈にあうように余分な言葉を加えて翻訳する必要はありません。

 

喩え話は、内容とそれを語られた主イエス・キリストとを切り離して考えてはならないのです。「神の国」つまり「神のご支配」は主イエスの宣教とともに始まります。「ともし火」はこの罪の世に救いの希望をもたらします。高く掲げてはじめて、ともし火は部屋の中を明るくすることができるのです。土間やベッドの下に置くと、十分に光を行き渡らせることができません。宝の持ち腐れです。もったいない!! 「キリストとともに救いが来た」とみんなに告げて回ること、それが伝道です。弟子たち、すなわちキリストをともし火として信じる教会は、ともし火を高く掲げて燭台の上に置き、「キリストにこそ、光があります」と宣伝して回るのです。

 

一時期、ともし火が人の目から隠されているように見えることがあります。しかし、内に秘められているだけで、輝く力を無くしたわけではありません。燭台の上に置きさえすれば、ともし火そのものが光り輝きはじめます。伝道とはその光そのものの力を信じて、掲げることを意味するのです。

 

2014年10月26日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

種をまく人

 

マルコによる福音書 第4章1-20節

 

主題聖句:「良い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、…」             

マルコによる福音書 第4章20

                                    

マルコによる福音書を読み始めて、主イエスのなさった説教をまとめて書いてあるところはありませんでした。しかし、この4章からは内容が詳しく記されています。その教え方の特徴が「たとえ」です。「…多くのたとえでみ言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが…」(第4章34節)この後にこのように出てきます。主イエスの用いられた説教の形式がすべていわゆる〝喩え話〟であったとは考えにくいのです。

 

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って主イエスは宣教を開始されました。伝えたい内容の中心点は「神の国」あるいは「福音」であるはずです。その内容を伝えるのにもっとも適している語り方として「たとえ」を主イエスが用いられたということでしょう。

 

「たとえ」は旧約聖書以来「知恵の言葉」あるいは「謎」と考えられてきました。ある意味隠されているのです。カプセル状のお薬のように、中味は外界からは隔てられています。主イエスの教えを聞いて受け入れ、決断して従う時にはじめて真価を発揮します。神のご支配は外側から眺めているだけではわかりません。信じて従ってみた結果、「なるほど、神さまが自分を捕まえくださっていたんだ」と、後から体験的に納得するものなのです。

 

「たとえ」は〝両刃の剣〟です。聞く人が心を閉ざして、真理の中に飛び込もうとしなければ、殻の中に閉じ込められた〝神の国の奥義〟が聞くものに届きません。だから「聞き方に注意せよ」と主イエスは言われるのです。弟子には神の国の秘密が打ち明けられています。聞き方によるのです。