2021年10月24日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.43 暗い顔をしないように

 

断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。        マタイによる福音書 第6章16節

 

 この箇所で、主イエスは断食を勧めているのでも、否定しておられるのでもありません。当時の人々が、信仰のあり方の一つとして守っていた断食に注目し、この断食のあり方を通して、今日の私たちの信仰生活の基本的なあり方を明確に指摘しておられるのです。

断食は、少しの期間食事を断つことです。旧約時代以降、イスラエルにおいて、神の前に罪を悲しみ悔い改める時に、断食をして、心も体も集中して深く罪を自覚し、神に心を向けて祈りと悔い改めをしました。深く悲しむために自ら食を断つことをしたのです。

主イエスが教えられたことは、信仰生活は、人にではなく神に見てもらうことを心がけよということです。神に心も体も向けて断食するときに、誰かに見てもらい、自分がちゃんと信仰生活をしているのを見てもらおうとしてしまうことがあったのです。それでは、神に向けてではなく、人に認めてもらおうとしていることだと指摘されています。むしろあなたの断食が人に気づかれないで神にだけ見ていただくようにしなさい。暗い顔をせず、喜んで過ごしなさい。主イエスにあって神の前に罪を悔い改めることは、主イエスから罪赦されて喜びに至ることだからです。主イエスが共におられます。このお方と共に喜んで歩むのです。

2021年10月17日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.42 試みに遭わせず

 

わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

 マタイによる福音書 第6章13節

 

 私たちの罪を赦してくださいと求めた者が、「試みに遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るのは自然なことです。信仰生活は、神に喜ばれるように生きる者になることだからです。そのために、悪いことをしないような生活をしなければなりません。しかし、私たち人間は弱く、試みに遭えば、ひとたまりもなくやられてしまいます。だから、聖い生活を求めて悪から救い出してくださいと祈るのです。

ところで、「試み」とは何でしょうか。「試み」という原語には二つの意味があります。一つは、「試みる」「試練」で、信仰が育つように試す、テストするとの意味です。最初は苦しみや辛い経験があったとしても、その試練を耐え忍んでいくとき、信仰が育っていくのです。試練は必要なものとしなければなりません。  もう一つの意味は「誘惑」です。悪へと誘っていく力です。私たちは誘惑されやすく、欲に引かれて、誘われて、罪を犯します。悪の背後には、悪い者の存在があり、神から引き離そうと誘惑し、人間に罪を犯させようとします。このような誘惑から、私たちは守られるのでしょうか。悪魔の誘惑に勝利され、私たちを救い出された主イエスが私たちの試練や誘惑から救い出してくださいます。だからこそ、私たちも、この祈りをすべきなのです。 

 

2021年10月10日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.41 我らの罪をお赦しください

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

 マタイによる福音書 第6章12節

 

 私たち人間は神の前に罪ある者ですから、神に罪を赦していただかなければ、神の前に罪人のまま裁かれてしまうかもしれません。自分の力では解決できなかったのですが、神はその憐みによって私たちの罪を赦してくださったのです。それゆえ、まず自分の罪の赦しを求める祈りをささげ、自分の罪が赦していただいたという恵みによって自分に対して罪のある人を、自分も赦しますと祈っていくのです。

まず、自分の罪の赦しを求める祈りですが、その罪が「負い目」と言われています。私たちには神に対して莫大な借金のような罪があるのですが、返すことができないでいます。そのような罪の自覚が自分にはあまりありません。ある時、自分の負い目に気づかされますが、自分では償うことができません。しかし、神は憐れに思い、私たちの罪をすべて赦してくださいました。イエスの十字架のゆえに赦してくださいました。それゆえ自分の罪の赦しをお願いするのです。このように、神から自分を赦して頂いたのですから、その恵みを覚えて、自分に罪のある者が赦されるように祈り、赦していくべきなのです。神から赦されたのだからです。