2021年9月5日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.36 真実の祈り

 

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。                 

マタイによる福音書 第6章6節

 

 

祈りは、神の子とされた私たちが父なる神様に自分の思っていることをお話することです。父なる神は私たちが祈るのを待っておられます。ですから、遠慮しないで何でも神様にお話しすることです。

 

ですが、いざ実際に祈ろうとするとき、どのように祈ったら良いのか、戸惑うことがあります。祈りたいと思ってはいても、どういうふうに祈ったら良いのか、悩んでしまうことがあるのではないか。

 

そんなとき、主イエスがどう祈られたのか、どう祈るように教えられたのかを学ぶことが、祈りにおいて最も大切なことです。

 

今日の箇所で、主イエスは、祈る時どのような姿勢で祈るべきかを教えておられます。「祈る時にも…偽善者のようであってはならない」と。主イエスが偽善者と呼ばれた人たちは、人に見てもらおうと人の集まる会堂や大通りという目立つ場所で、人々の反応を気にしながら祈っていたのです。神に祈っているはずなのに、人々の反応を気にしながら祈ることは問題だと言われました。

 

ではどうしたらよいのでしょう。祈る時、神様とだけ独りになって祈ることです。一人静かに神に思いを集中し、神の言葉を思い、神様にお話しすることです。隠れた所におられる神が聞いて下さいます。

2021年8月29日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.35 神のみ前に生きる

 

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」    

 マタイによる福音書 第6章1節

 

マタイ6章から新しい段階に入ります。ここでは、神を信じる者が神のみ前において、全面的に神により頼んで生きることを教えています。私たちが神と共に生きていこうとするとき、この世の中にあってどういうふうに気を付けて生きていくべきかということです。

ここに「善行」とあります。これは、当時のユダヤ人の重んじていた信仰生活の具体的な行いでした。「施し」「祈り」「断食」です。この行為をしていくとき、陥りやすい問題点があるというのです。

信仰は心の中で信じることですが、必ず表に現れてきます。信仰生活の中で行いがあらわれてくることは大切なことです。今日の私たちに照らせば、礼拝を忠実に守る、献金をささげる、日毎に祈ることをしています。それらは大切なことであるがゆえに、その中で問題も起こりやすいのです。偽善になってしまいやすいので、主イエスは注意しておられます。私たちは人を意識しやすい、善行を行っているときでも、他の人の目を気にしやすい。人からの評価を期待しがちです。しかし、主イエスは、それは違うと言われます。なぜなら、神は隠れたところで見ておられる方だからです。神は私たちの心も、言葉や行いもすべて知っておられ、報いてくださいます。この神を意識しよう

2021年8月22日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.34 敵を愛しなさい

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。     マタイによる福音書 第5章44節

 

「汝の敵を愛せよ」。この言葉は、多くの人々に知られています。「隣人を愛しなさい」。この言葉もよく知られていますし、こちらは、誰もが自分にもできることと思っています。でも、どうでしょうか。自分の隣人について、どこか、自分の家族、自分の仲間、自分の身近な気心の知れた人たちだけに限定してしまっているのではないでしょうか。そういう仲間以外は、隣人ではないから、よその人として、あまり重んじないで、気にしないでいるのではないでしょうか。

 

そのように考えやすい私たちに向けて、主イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と教えておられるのではないかと思います。「敵」すなわち、自分に害を及ぼす、苦しめてくる人を愛しなさいと、主イエスは言われるのです。しかも、アガペーの愛で愛しなさいと。その人を重んじ、受け入れていくように思って行動しなさいと。具体的には、自分を迫害する者のために祈りなさいと、教えています。このようにすることは、自分の頑張りや意志だけでは大変難しいことです。

 

どうしてこうしなさいと教えられているのでしょうか。私たちに天の父がおられ、このお方が、私たちを子として愛してくださっておられるからです。このお方が善人だけでなく悪人にも太陽の光を与え、恵みの雨を与えておられるからです。天の父から愛されているのです

2021年8月15日 礼拝説教要旨

      

 きょうどう-2021年 No.33 善をもって悪に勝て

      

 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。      

マタイによる福音書第5章39節

 

「目には目を、歯には歯を」という言葉はよく知られています。この言葉の本来の意味は、レビ記24章20節を見るなら、人々がケンカをして、人に被害があれば、その傷害を加えた者はそれと同一の傷害を受けなければならないという刑罰の定めでした。被害に応じた罰が定められていて、それ以上の仕打ちを止めていたのでした。しかし、ユダヤ人指導者たちは、目がやられたら、必ず目を打つ、歯をやられたら、歯を打たなければならないと教えたのです。そのように、今日でも解釈されているのではないでしょうか。

 

これに対して、主イエスは「悪人に手向かってはならない。」と教えられました。悪人が自分に被害を加えてきたら、こちらは大変苦しんでしまいます。それなのに、悪人に手向かわないでいることが果たしてできるでしょうか。怒りや恨みを抱かず、相手に仕返しをしないでいるのは難しいことです。誰にもできないことのように思います。

 

ですが、この言葉を聞いている私たち、すなわち、神を信じ主イエスを信じている私たちには、主の憐みによってさせていただけるかもしれません。自分が神から赦していただいたと言う思いを頂いて、このことを自分で解決するのではなく、神が放っておかれない、後始末をしてくださると信じるとき、神がさせてくださるのではないか。