2021年10月10日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.41 我らの罪をお赦しください

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

 マタイによる福音書 第6章12節

 

 私たち人間は神の前に罪ある者ですから、神に罪を赦していただかなければ、神の前に罪人のまま裁かれてしまうかもしれません。自分の力では解決できなかったのですが、神はその憐みによって私たちの罪を赦してくださったのです。それゆえ、まず自分の罪の赦しを求める祈りをささげ、自分の罪が赦していただいたという恵みによって自分に対して罪のある人を、自分も赦しますと祈っていくのです。

まず、自分の罪の赦しを求める祈りですが、その罪が「負い目」と言われています。私たちには神に対して莫大な借金のような罪があるのですが、返すことができないでいます。そのような罪の自覚が自分にはあまりありません。ある時、自分の負い目に気づかされますが、自分では償うことができません。しかし、神は憐れに思い、私たちの罪をすべて赦してくださいました。イエスの十字架のゆえに赦してくださいました。それゆえ自分の罪の赦しをお願いするのです。このように、神から自分を赦して頂いたのですから、その恵みを覚えて、自分に罪のある者が赦されるように祈り、赦していくべきなのです。神から赦されたのだからです。

 

2021年10月3日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.40 必要な糧をお与えください

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」

 マタイによる福音書 第6章11節

 

 これは、私たちの食べる物を今日与えてくださいと、父なる神に素直に願い求めている祈りの言葉です。でもどうでしょうか、私たちにはピンと来ない祈りに思っていませんか。なぜかというと、現在の私たちは、食べる物に困ることがあまりないからです。いつも身近に食べ物があります。神様にお願いしなくても、人に頼めばすぐに手に入ると思っています。ですから、この祈りは何か自分とは関係のない祈りのように思えるのかもしれません。

それでは、この祈りは、今の私たちには全く関係のない祈りなのでしょうか。今の私たちが食べ物に困っていなくても、この祈りをすべきなのだとしたら、この祈りにはどんな意味があるのでしょうか。

幸いなことに私たち神を信じる者は、食前の感謝の祈りをしています。祈って食べるようにしています。どうして感謝の祈りをするのかというと、食べ物の材料である、野菜や肉などは農家の人たちが自然の力によって育てて収穫します。人間の力で作られますが、自然の力も多くあり、自然を造り支配されるのは神であるからです。神がこれらを備えて、私たちを養ってくださると感謝して祈っているのです。

 

2021年9月26日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.39 御心が行われますように

 

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」

 マタイによる福音書 第6章10節

 

主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」の3つ目の祈りを学びます。神様の御心が地の上にも行われますようにとあります。

「御心」とは、父なる神のご意志、神様のご計画です。それがモーセの十戒などに表されています。その戒めの中心は、神を愛しなさい、隣人を愛しなさいであると、主イエスは教えられました。この中に神様の御心を行うことがあるのです。広い意味では、私たち人間に対する神様の救いの御業です。神様は私たちが救われるように御業を進めておられるのです。その意味で、私たちは神様の御心の中に置かれているのだと信じているべきなのです。

それでは、なぜ御心が行われるように祈るべきなのでしょうか。それは、神の造られた世界に多くの人間がいてそれぞれが自己主張したら混乱が起きてしまうので、私たちを愛してくださる神様を中心に置いて秩序が保たれるのが良いからです。でも、人間は神様のお心に自分を合わせることが非常に難しいのです。この祈りを実践された主イエスは、人類の救いのために人類の罪を背負って十字架に付かれる前に、大きな苦しみがありました。神から見捨てられると言う苦しみです。その中で主イエスは自分の願いを捨てて神に従われたのです。自分を捨てて神に従われなかったら、御心は成就しなかったのです。私の内にも御心がなるために、自分を捨てて神に従うべきなのです。

2021年9月19日 礼拝説教要

きょうどう-2021年 No.38 わたしたちの本国は天にある

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。          

フィリピの信徒への手紙 第3章20節

 

このみことばは、召天者記念礼拝のご案内にいつも載せている言葉です。この言葉には、パウロの、キリストを信じる信仰に立った、心からの喜びと確信が表されていると思います。

「わたしたちの本国は天にあります。」「本国」とはその人の所属する国家です。自分たちの所属する国は、地上にではなく、天にあるとパウロは言うのです。この背景にあるのは、当時の地中海周辺の町々は、強大なローマ帝国によって守られていて、自分たちはローマによって守られているという安心感です。パウロはその理解に立って自分たちを守ってくれる国は、天にあるというのです。天には神がおられます。「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」(コロサイ3:1)。主イエス・キリストが私たちを罪から救い出すために私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださり、私たちのために死から復活されたという救いの御業のゆえに、私たちは救われて、キリストの命にあずかっているのです。

信仰の先輩の方々も、このキリストの救いを知って信仰の喜びを受けて、苦しみや試練の中でもキリストが自分を守ってくれると信じて歩まれました。救い主キリストこそ、私たちの拠りどころです。