2022年6月26日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.26  神の愛

 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

                ローマの信徒への手紙 第5章6節

  前回、ローマ5:1~5で、神を信じて、その信仰を神様から義と認められた者は、神との間に平和を持ち、神の栄光にあずかる希望を誇りとしていると、パウロは語りました。そればかりでなく、苦難も誇りとします。苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む。この希望は私たちを欺くことはないと語りました。

今日は、その続きで、この希望は、神様が私たちに注がれる神の愛に根拠を持った希望であると明らかに示しています。

この希望が、私たちを欺くことがない。私たちを辱められることはない。それはなぜかと言うと、神の愛が私たちの心に注がれているからです。神様が私たちを愛してくださっていることが確かなのです。神さまの私たちへの愛がわかるように、私たちの心に注がれています。イエスを救い主と信じる時に聖霊が私たちの心に与えられます。この聖霊が、神様が私たちを愛してくださっている愛を、私たちの心にわかるように注いでくださっているのです。この神様が私たちを愛してくださっていることがどんなに確かなものであるかについて、パウロは、こう言います。キリストは、私たちが弱く、罪人であった時、私たちの代わりに死んでくださったと。

2022年6月19日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.25  義とされた者の祝福

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

                ローマの信徒への手紙 第5章1節

 

信仰生活には、何度も押さえようとしても、口をついて出てくる叫びがあります。自分が救われ生かされていることの喜びです。苦しいことがあっても、救われているという喜びです。ローマの信徒への手紙の中に、このような叫び声が何度か聞こえてきます。今日の箇所にもそのようなパウロの喜びの叫びが語られています。

パウロは、4章までを振り返り、「信仰によって義とされたのだから」と語っています。私たちは神に逆らい罪を犯して裁かれてもおかしくなかったのに、神は御子キリストを私たちの身代わりにして十字架で裁かれました。このキリストの救いの御業によって無償で私たちを義とされたのです。神との正しい関係にされたのです。キリストのなさった御業を私のためにしてくださったと信じる時、義とされるのです。このように信仰によって神と正しい関係にされるとき、私たちは神との間に平和を得ているのです。それまで神に背いてばかりの私たちは、神に対して敵対していたのですが、御子キリストの救いの御業によって神と和解させていただいたのです。神と平和な状態になったのです。私たちの心に平安、安心が与えられているのです。神との間に平和を頂いている祝福を今一度感謝しよう。

2022年6月12日 礼拝説教要旨

きょうどう-2022年 No.24  子どものように信じる

しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

  マルコによる福音書 第10章14節

 

本日は、「こどもの日」「花の日」という教会の記念日にふさわしいこととして、礼拝で子どもの祝福を祈る時を持とうとしています。そういうことで、子どもを祝福するとはどういうことかを学びたいと思います。今日の箇所で、主イエスに触れて頂こうと、親たちが子どもたちを連れて来ました。主イエスはそれを喜ばれ、その子供一人一人を抱き上げ、手を置いて祝福されたとあります。主イエスが子どもたちを祝福されたことで、親も子も大いに励まされたことと思います。

その時、弟子たちはこの親子たちを叱って追い返そうとしたのです。主イエスは多くの人々に教えておられてお忙しいから、騒がしい子どもたちが近づくのは邪魔だろうという弟子たちの判断でした。しかし、主イエスはそれを見て憤り、弟子たちに注意しました。子どもたちを追い返すな、来させよ。主イエスは子どもたちを受け入れておられたのです。それは、主イエスがいつも教えておられる「神の国」は、このような子どもたちのものだからなのです。神の国、神様が治めるご支配は、子どもたちがいるところです。神は子どもたちを受け入れておられるのだから、子どものように神の支配を受け入れよと教えられたのです。