2012年2月26日 礼拝説教要旨

主題聖句 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに身を向けつつ、…目標を目指してひたすら走ることです。」  

フィリピ3章10

説教主題「目標を目指して」

 後ろのものとは何でしょうか。過去でしょうか。「済んだことをいつまでも悔やんでいても仕方がない。やってしまったことは変えられないのだから、それよりも将来のこと、いろいろな可能性の広がっているこれからのことを〝前向きに〟考えましょう。」などと言います。この〝前向き〟とは「悲観的にならず、より良くなることだけを目指し、積極的に生きて生きましょう。」という意味です。このような考えは、世間一般に広がっており、聖書が言わなくてもだれでも言いそうな事です。

 過去の失敗をくよくよ考えるのは良くないでしょう。しかし、過去の良い思い出、人に慰めてもらった経験が今の自分を支えている面もあります。過去のすべてがかならずしも悪い訳ではありません。それ故に「後ろのもの」は「過去」というより、神に対する罪なのではないでしょうか。自分の周りに不幸なことが起こると、過去に何か良くないことをしたせいで、その報いが回ってきているのではないかと考えてします。

 過去は忘れ去れば、気にならなくなるかもしれません。しかし、神に対する罪は、自分が忘れてもなお動かしがたく残っています。罪は消しようがないのです。

 罪は神が赦してくださってはじめて解決します。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」(エレミヤ第31章34節)犯した罪を神は赦してくださいます。この赦しを感謝して生きる時、私たちは、罪の重荷から解放され、目標に向かって歩みはじめるのです。

2012年2月19日 礼拝説教要旨

主題聖句 「何とかして、捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」 

        フィリピ 3章10節

説教主題「前のものにむかって」

 パウロはキリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかって、何とかして死者の中からの復活に達したいと申します。しかし、完全な者になっているとも言えないと付け加えます。

ここで言う「完全な者」とは〝悟りを開いて既に特別な境地に達した人〟とか〝解脱者〟を意味しているのではありません。〝成熟した大人〟のことです。つまりまだ自分は十分に成長しきっていないと言っているのです。

 大人にまで成熟していない子供も、人としての資質は備わっています。ただ、これからの成長の可能性を秘めており、また成長を期待もされているのです。完全の水準にまで到達していないのでダメだというのではありません。キリスト様に救われたと言うちゃんとした基礎は既に与えられています。例えばキリストを知るということを考えてみます。パウロといえどもキリストを知る知り方は十分とはいえないでしょう。しかし、知っているのは嘘ではないし、いい加減な気持ちでもないことも確かなのです。もっとも時に気持ちが揺らぐことも、がっくりくることもあるでしょう。しかし、おしなべてキリストを信じて生きてゆくのは間違いありません。「キリストを信じているから、もっとキリストを知りたい。」と望むことは当然といえば当然の願いなのです。与えられた救いや恵みをもっと成熟したより良いものにしたいと願うのは、実はパウロがイエス・キリストに捕らえられているからなのです。

2012年2月12日 礼拝説教要旨

主題聖句 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって…何とかして死者の中からの復活に達したい」

フィリピ 3章10節

説教主題「キリストの義」

  パウロはキリストを信じる、あるいはキリストを愛するという事を「キリストを知る」という言い方をします。キリストだけではありません。「その復活の力」を知るのです。力とはダイナマイトのもとになった言葉で「爆発する力」を表します。土砂崩れが起こり、トンネルの出入り口が落石で塞がれたとします。十分に安全性を確認し、ダイナマイトを用いられることがあります。救出に一刻を争う場合に瓦礫撤去に大きな威力を発揮するでしょう。主イエスのご復活にはそのようなエネルギーが秘められているのです。

  復活の力は第一に死を爆破します。さらに死を打ち破ることによって罪を打ち滅ぼします。人間をがんじがらめに縛っていた罪の力は並大抵のものではありません。「復活の力を知る」とはキリストが私たちを捉えている死と罪を打ち破られるとわかることなのです。

  私たちは相変わらず罪を犯します。それでも罪が支配者ではなく、罪に代わってイエス・キリストが私たちの主人となってくださるのです。

  すべてを清算して全く新しい人間になりたいと思うことはないですか。しかし、自分に与えられた能力・環境・性格は大体決まっており、今の自分からは抜け出しようがありません。だから新しくなりたいと思うし、また同時にそれは難しいとも感じてしまうのです。職業を変え、家族との関係を断ったところで新しくなりません。イエス・キリストの復活の力のような全てを爆破して打ち破る力が必要なのです。

2012年2月5日 礼拝説教要旨

主題聖句 「熱心の点では教会の迫害者…しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。] 

                       

フィリピの信徒への手紙 第3章6節7節

 

説教主題「神の憐れみの手本」

  パウロは自分の律法に対する熱心さを表す物差しとして「教会を迫害する者である」と申しました。それが誇りだというのです。このような言い方に対しては抵抗を感じます。いじめるのは良くありません。ましてやそれを自慢するなどひどい話です。しかし、福音を信じるキリスト者たちをユダヤ人の指導者や律法を信奉する人々は自分たちの宗教を破壊するけしからん者たちだと考えていました。何とかそのような悪影響を食い止めなければなりません。律法に熱心であり、自らの宗教を守る真面目さの現れがキリスト者たちを潰すことだと考えていたのです。

   そのパウロはキリ スト者たちを迫害していたさなか、180度変わります。信じる者たちを懲らしめるとは結局、大本におられる主イエス・キリストに歯向かうことです。その攻撃をしていた主イエスにお目に掛かったのです。このところの経緯について使徒言行録には3度も記述してあります。(9章、22章、26章)パウロの個人的な経験としてだけでなく、キリストの教会にとっても余程大きな出来事であったに違いありません。

   パウロはこの主との出会いを「主キリスト・イエスを知る」と表現します。滅ぼそうとするパウロを〝返り討ち〟にするどころか、限りない憐れみをもって近づき、赦して救ってくださったのです。そのような「愛の主イエス・キリストが分かった」と言って心から喜んだのです。