2012年2月5日 礼拝説教要旨

主題聖句 「熱心の点では教会の迫害者…しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。] 

                       

フィリピの信徒への手紙 第3章6節7節

 

説教主題「神の憐れみの手本」

  パウロは自分の律法に対する熱心さを表す物差しとして「教会を迫害する者である」と申しました。それが誇りだというのです。このような言い方に対しては抵抗を感じます。いじめるのは良くありません。ましてやそれを自慢するなどひどい話です。しかし、福音を信じるキリスト者たちをユダヤ人の指導者や律法を信奉する人々は自分たちの宗教を破壊するけしからん者たちだと考えていました。何とかそのような悪影響を食い止めなければなりません。律法に熱心であり、自らの宗教を守る真面目さの現れがキリスト者たちを潰すことだと考えていたのです。

   そのパウロはキリ スト者たちを迫害していたさなか、180度変わります。信じる者たちを懲らしめるとは結局、大本におられる主イエス・キリストに歯向かうことです。その攻撃をしていた主イエスにお目に掛かったのです。このところの経緯について使徒言行録には3度も記述してあります。(9章、22章、26章)パウロの個人的な経験としてだけでなく、キリストの教会にとっても余程大きな出来事であったに違いありません。

   パウロはこの主との出会いを「主キリスト・イエスを知る」と表現します。滅ぼそうとするパウロを〝返り討ち〟にするどころか、限りない憐れみをもって近づき、赦して救ってくださったのです。そのような「愛の主イエス・キリストが分かった」と言って心から喜んだのです。

2012年1月22日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、

今では他の一切を損失と見ています」

フィリピの信徒への手紙第3章8節

説教主題「キリストに頼る」

 クリスマスの期間に途絶えていたフィリピの信徒への手紙の連続説教に戻ります。この手紙は「喜びの手紙」であると申しました。それと同時に「戦いの手紙」でもあるのです。パウロが伝え、フィリピの信徒たちが受け入れていた信仰とは異なっている、教会の信仰の根本を揺るがしかねない人々やものの考え方が入って来ました。この人たちの一番の問題点は「キリスト・イエスを誇りとせず、それ以外のものを頼りにする」ことです。

 パウロは生粋のイスラエル人、つまり、神の選びの民族の一員であること、さらには自分で努力した律法に対する忠実さを誇りに思っていました。イエス・キリストを信じる以外に何も持たないのであれば、キリストにすがりつくほかないでしょう。ところが豊かなものを持っていれば、かえって手放すことが難しく、持っているものを誇りたくなります。パウロに比べれば私たちは何も持たないと言えるでしょう。それでも手元に残っている何がしかの僅かなものを自分の〝寄るべ〟(頼りになるべき根拠)としたくなります。

 自分を支える価値の根本的な転換がパウロに、起こりました。それまで、誇りに思っていた生い立ちや律法への忠実さなどを損失とみなすようになったのです。価値を無理に代えようとしたのではありません。イエス・キリストを知る絶大な価値に気がついて、キリストの恵みに捉えられたのです。自分の誇りでなく、キリストを誇るようになったのです。

2012年1月15日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちにたとえを話された」

 ルカによる福音書 第18章1節

説教主題「失望なき祈り」

 このやもめはこれまでの歴史の中に現れた教会を象徴しているように思えます。主イエスの生きられた当時のやもめは、社会的に不利な立場にあり、民事のもめごとなどでも理不尽な扱いを受けることもしばしばであったようです。ですから自分が正当に扱われようと思えば、裁判官に訴える以外にありません。困り果て、無力で、しかも自分は正しいと思っています。頼みとするのは裁判官だけです。厄介な状況の中で、なすすべもなく、神にせがみ、神ご自身が義を貫いて下さるように求める弟子たちの共同体(教会)とやもめの姿は重なります。
ところがたとえ話に出てくる裁判官は頑ななのです。「神など畏れないし、人を人とも思わない」が2度繰り返されます。裁判官自身がそのように豪語します。やもめがどんなに懇願しても取り合ってもらえそうにありません。しかし、やもめはこの裁判官のもとにひっきりなしにやってきます。それは裁判官が「さんざんな目に合わされるかもしれない」と脅威を感じるほどでした。「殴られるかもしれない」というのが元の意味です。「人を人とも思わない」裁判官を恐れさせ、ついには裁判をするところにまでやもめはもってゆきます。
神はこの裁判官と似ても似つかぬ義なる方です。その方は速やかに裁きをし、ご自分の義を貫いて下さいます。〝神の義の実現には絶望するな!〟〝信じて耐えよ!〟…望みを持ちつつ耐えるように主イエスはこのたとえ話を通じて励まして下さるのです。