カテゴリー: あゆみ
2011年12月4日 礼拝説教要旨
主題聖句 「捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」
イザヤ書第61章1節
説教主題「解放を告げる知らせ」
主イエスが成人され、宣教を開始してから、まず故郷のナザレの会堂で説教をされます。その日に開かれた聖書の箇所がこのイザヤ書第61章冒頭のみ言葉です。このみ言葉の朗読がなされたあと、聖書(巻物)を係の者にお返しになって、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスは言われました。この〝解放〟がイエス・キリストによって、また、キリストのうちに起こります。突き詰めて言えば、この御方こそ解放そのものと言えるのです。昔、神がイスラエルの民を通してされた、預言の一つが単に実現したというだけではありません。その解放の約束そのものがキリストの身に起こり、成就したのです。ナザレで宣教を開始されたイエス・キリストは、数年後、十字架に掛かり、死んで甦られます。そのご生涯と行われた御業において、主がもたらされる救いが罪からの救いであることが明らかにされました。〝解放〟とは何よりも罪の束縛からの解放と言えるでしょう。約束は実行されてこそ内実があり、実行されないままなら、神は約束を違え、人間を裏切ったことになります。私たちは主イエスのご生涯を知っています。この約束が〝空手形〟でないことをどのようにして知るのでしょうか。イエス・キリストの全生涯を通して以外にありません。この御方のご生涯を改めて思い巡らすとき、イザヤ書の約束が間違いなく、この御方において実現している。主イエスがご生涯を持って、約束の成就の保証、裏書きを与えてくださったことがわかるのです。
2011年11月27日 礼拝説教要旨
主題聖句 「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」
フィリピの信徒への手紙第2章6節
説教主題 「人となられた神」
今日から待降節の礼拝を守ります。クリスマスの季節はイエス・キリストがどのようなお方であるかを深く思い巡らすときです。
ナザレにお生まれになり、宣教してのち、十字架にかけられ、甦られた主イエスを「真の神にして、かつ同時に真の人」とキリストの教会は最初から言い表してきました。これが教会の信仰告白です。このフィリピの信徒への手紙も「キリストは神の身分でありながら」と言っています。
真の〝神であることをおやめになることなく〟人となられ、さらに〝神のままで〟十字架にかかられ、死んで甦られました。その間も終始神であることを貫かれたのです。
人間を救うために辿られた救い主の道筋は、父なる神がお決めになったといえるでしょう。その道をまるでお芝居を演じるようにキリストは何の苦もなくこなしてゆかれたとは思えません。荒野で40日悪魔から試みを受け、ゲツセマネでは血の汗を流して祈られました。さらに十字架の上で「神はなぜ、お見捨てになるのか」と叫ばれたのです。このように神のご意志に従うために激しく戦っておられるのは明らかです。
救い主として地上にお生まれにならなければ、このような戦いを経験なさることも無かったでしょう。人の救いのためには大きな犠牲が必要です。救いのために犠牲を払わないで済む「神の身分」「神と等しい者」を主イエス・キリストはお考えになりません。自ら進んで、犠牲になることを引き受けてくださったのです。神のご愛を思わずにはおれません。
2011年11月20日 礼拝説教要旨
主題聖句 「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、…」
フィリピの信徒への手紙第3章3節
説教主題 「キリスト・イエスを誇る」
フィリピの信徒への手紙を読んでいると、神が与えてくださる喜びがまるで波状攻撃のように迫ってきます。ところが、第3章2節からは立て続けに「注意しなさい」「気をつけなさい」「警戒しなさい」とガラっと調子の変わった言い方になります。〝喜びの手紙〟からまるで〝戦いの手紙〟になったかのようです。非常に激しい調子です。
警戒を促されている相手は外部から、教会を迫害して、教会を潰そうとする人々ではありません。教会を誘惑し、正しい信仰から引き離し、間違った信仰に引っ張り込もうとするのです。
このような間違った信仰に迷わされないための方法は「キリスト・イエスを誇りとする」ことです。
誇りはあながち悪いものとばかりは言えません。「人間としての誇り」を保たなければ、生きがいを失ってしまうからです。しかし、自分の尊厳を保つ「誇り」にも罪が忍びこんできて、誇ってはいけないことまでも誇るようになります。自分を誇るようになると傲慢に陥ります。それが特に救われることに関係してくるのです。イスラエルの人々は「割礼を受けているのだから、神が私たちを救ってくださるのは当然ではないか」と考えるようになります。それを突き詰めてゆけば、イエス・キリストによる救いが絶対的なものにならなくなります。
「キリスト・イエスを誇りとする」とはキリスト以外に救いは無いと確信し、全面的により頼み、キリストを心から喜ぶことなのです。
2011年11月13日 礼拝説教要旨
主題聖句「神は彼(エパフロディト)を憐れんでくださいました。彼だけでなくわたし(パウロ)をも憐れんで…」
フィリピの信徒への手紙第2章27節
説教主題 「広がってゆく喜び」
牢屋のパウロの世話をしていたのは、テモテとエパフロディトでした。その当時、現在のように〝囚人であっても人権は尊重される〟ことはなく、面会のみならず、食物・着物の差し入れをすることや、場合によっては囚人の関係者が一緒にいて世話をすることも許されていたようです。官憲は「囚人の面倒まではみないよ」という考えだったのでしょう。
そこで、フィリピの人たちはエパフロディトに贈り物を持たせ、パウロのもとに遣わします。エパフロディトが「自分の窮乏の時の奉仕者になってくれた」といってパウロは喜びます。
ところが、エパフロディトの心身に無理が掛かったのか、重い病気になりました。フィリピの人たちの期待に添えないばかりか、助けに来たつもりがかえってパウロにも心配をかけ、足手まといのようになったのです。その情報がフィリピの人たちの耳に入ったようで、エパフロディトはますます心苦しくなります。心細くなり、里心がついて本心はフィリピに帰りたいのに、大手を振って帰れない状況になりました。
何一咎め立てせずエパフロディトを迎えて欲しいとパウロはとりなします。単に「失敗をしたのを大目に見ろ!」というのではありません。神がエパフロディトをも自分(パウロ)をも憐れみ、罪を赦して下さったと証ししたかったのです。エパフロディトがひん死の病気から癒され、立ち直っている出来事の中に神の憐れみのわざを見ておりました。それゆえ、エパフロディトを喜んで迎え入れて欲しいとパウロはとりなすのです。
2011年11月6日 礼拝説教要旨
主題聖句 「テモテのように…あなたがたのことを心にかけている者は他にいないのです。」
フィリピの信徒への手紙第2章20節
説教主題 「キリストを求める」
主イエス・キリストには12弟子がおりました。パウロにも伝道者の仲間がいます。師弟関係の点で似ているように見えます。ところが12弟子にとって主イエスは〝救い主〟であり、「イエス・キリストが復活された!」と宣べ伝える信仰の対象でもありました。パウロの仲間はパウロを教祖のように崇め奉ってパウロを宣べ伝えることはしません。その点が決定的に違うところです。パウロもテモテもエパフロディトも等しくキリストの福音を伝え、キリストに仕えるものなのです。
パウロは別の手紙で「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。」(テモテの手紙一第4章11節)とテモテに言っていますから、歳の差があったのかもしれません。しかし、〝先輩かぜをふかす〟ことなく、後輩のテモテを深く尊敬しておりました。「息子が父に仕えるように、彼(テモテ)はわたしと共に福音に仕えました。」(2章22節)とあります。もちろんテモテは偉ぶることなく、パウロを先達として敬慕し、よく仕えたことでしょう。しかし、それはパウロの言うことを1から10まで何でも聞いたというより、パウロと共にキリストの福音に仕えたのです。このようなテモテのイエス・キリストに対する信仰の姿勢に感心し、それを高く評価したのでした。
テモテは自分自身よりキリストのことを考えます。誰よりも親身になってフィリピ教会の人々のことを愛します。このテモテが来てくれることになりました。フィリピの人々にとって何と慰めになったことでしょうか。