カテゴリー: あゆみ
2012年3月25日 礼拝説教要旨
主題聖句「…彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、…」
フィリピ3章19節
説教主題「おのが腹を神とするな」
上記のすぐ前の18節では「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」とありました。これは信仰者の話です。信者が十字架に敵対することなどあり得るだろうかと思います。口では十字架は大切だと言うでしょう。しかし十字架に対する信頼が体の芯にまで染みこんで、深く根を下ろしていない。生活の仕方は十字架の救いを蔑ろにし、無視するものとなっているのです。「多い」と言われると私たちの心が痛みます。自分もその中に含まれるからです。十字架がなくてもいいとは思わないでしょうが、十字架だけでは何か足りない。他の者で補わなければならないと考えるのです。
十字架よりも自分で自分の救いを何とか出来ると考えるなら、その行き着くところは滅び以外の何ものでもありません。
面白い表現があります。十字架を受け入れない者の正体は「腹を神とする」なのです。腹が神とは妙です。腹は「自分の腹」のことでしょう。結局、自分が神となっています。十戒で〝真の神以外のものを神とするな!〟と命令されています。つまり偶像礼拝に陥っているのです。おもしろがってなどおれません。事態は深刻で、このような救いを蔑ろにする人間の姿が現れてきました。
十字架に背くと偶像礼拝や迷信に陥ります。しかし、そこから救うために十字架が私たちをズッシリと支えるのです。腹を神とする罪人を滅ぼさないで、救ってくださる。それが〝腹〟でない真の神なのです。
2012年3月18日 礼拝説教要旨
主題聖句 「…今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」
フィリピ3章18節
説教主題「十字架に敵対するな」
パウロには激情的な面もありました。しかし激情にかられ、冷静な判断を失ってしまうことは無かったはずです。そのパウロが「涙ながらに」訴えようとするのですから、これから述べるのは信仰者にとってよほど重要な内容に違いありません。
「キリストの十字架に敵対して歩む」人々とは どのような人たちのことでしょうか。フィリピのキリスト者たちにパウロはこの手紙を書いています。十字架への敵対者が別の宗教や福音と異なる教えを信奉している人々とは考えにくいのです。福音によって生かされているはずの人々、つまり教会の信仰者たちの中にこのような人々が多くいるというのです。果たしてそのようなことがあるのでしょうか?
キリスト者であれば、誰でも「主イエスの十字架による救いの恵みによって生きる」はずです。それは今更ながら、涙ながらに重要性を強調しなければならないとは思えません。ところが根本的なところは意外と盲点ですっぽり欠落してしまうものです。その人たちは口でキリストの十字架はいらないとまでは言わないでしょう。しかし、その人の生活ぶりを見ていると十字架はいらないと言っているのと同じで、それが「十字架に敵対している」ことなのです。キリストの救いは半分くらいは有効だけれど、残りの足りない部分を自分の良い行いで埋め合わせてあげなければならないと考えます。それは誤りです。
「キリストによる救いこそ、すべて!」パウロはこれに徹するのです。
2012年3月11日 礼拝説教要旨
主題聖句 「皆一緒にわたしに倣うものとなりなさい」
フィリピ3章17節
説教主題「キリストによって生きる」
パウロは自分に自信があり、偉い信仰者だと思い込んでいるので「わたしに倣え」といっているのでしょうか。この「ものの言い方」は高慢な鼻持ちならないいやらしさを感じて、反発を感じる方もおられるかもしれません。「パウロ先生!あなたはそれほどお偉いの?」と皮肉のひとつも言いたくなります。
しかし、「自分を誇るのではなく、主キリストを誇れ」と常々言ってきたパウロが自分を誇るなどとは考えられません。キリスト者は神の前の謙遜さを求められます。自分は救われる資格も価値も無いと思っているはずです。「私は立派だから、私に見倣え」と言っていないことは確かです。それでは何を見倣えといっているのでしょうか?
パウロはコリントの信徒への手紙一 第11章1節でも「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と述べています。パウロの何に倣えというのでしょうか。パウロが主イエス・キリストに倣っているその姿勢です。煎じ詰めれば、「キリスト者はすべてキリストに倣って生きよ」ということなのです。当たり前の事かもしれません。しかし、いきなり「キリストに倣え」と言われると気後れする人もいるでしょう。そこでパウロは次のように言うのです。「私のように不完全ながら、キリストに従おうとしているものがいます。皆さんと同じ悩みを抱えながら戦っている私なら真似しやすいでしょう?」…このように自分の身を晒しつつ、信仰の仲間の前にキリストに従う見本として我が身を差し出しているのです。