2012年6月17日 礼拝説教要旨  

主題聖句:「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」       

フィリピの信徒への手紙4章6節

主題聖句「神に打ちあけよう」

   「打ち明けなさい」は口語訳では「神に申し上げるがよい」でした。もともとの意味は「神に知っていただきなさい」です。神は私たちの心の底まで見抜かれます。胸の内をお話ししなくても、すべて知っていてくださるはずです。しかし、“黙して語らず”ではなく、わたしたちが「打ち明ける」ことを神は求めておられます。「秘密は他言しない」と信頼出来る相手(親友など)には、心の重荷を降ろしたくて、堰を切ったように語り出すのです。口語訳のように「申し上げる」というと、神の前に格好をつけ、都合が悪いことは言わないようにする印象を持ちます。しかし「打ち明ける」なら、“何もかも洗いざらい”ということにならないでしょうか。「こんなことをお願いしても無駄だ」と打ち明ける前に諦めて祈らない傾向が、不信仰なわたしたちにはあります。パウロが「知っていただきなさい」というのは、「神は信頼できる方です。」必ず受け止めてくださり、最善の形で応えてくださるというのです。

 その際に「感謝を込めて」とあります。元の言葉は「感謝と共に」で、「感謝を忘れては行けません」というのです。―打ち明ける前から感謝をしている―応えがない先にまず感謝をします。神の変わることのない愛を信じるからです。また神の知恵と力とを信じます。わたしたちは目先のことしか、気が廻りません。深謀遠慮とは程遠いのです。神は無限の知恵と知識、更には力をもっておられます。だからこそ「打ち明けるだけの値打ち」があるのです。神は信頼のできるお方です。

2012年6月10日 礼拝説教要旨

主題聖句:「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」 

      フィリピの信徒への手紙4章5節

説教主題「主は近い」

 「広い心」は口語訳や新改訳では「寛容」「寛容な心」とそれぞれ訳してあります。個人の翻訳でも「温和さ」「寛大さ」などと優しいイメージを連想させるものが多いのです。しかし、人の徳目の一つのように考えられがちの「広い心」も、その根拠は主イエス・キリストがすぐ近くにおられることにあります。“主の近さ”とは何か?近いだけではなく、一緒にいて下さるのです。どのように一緒にいてくださるのでしょうか。罪を赦すことにおいて、深く私たちと結びついてくださいます。

 パウロの願いはこうです。…キリストがあなたの罪を赦すこれ以上ない寛大さを示して下さいました。あなたはその憐れみを受けた見本です。こんなに多く神から罪を赦していただいたのですから、主イエスが「広い心」をお持ちであることを、言葉と生き方とをもってみんなに証しないさい。…つまり、キリスト者の“広い心”の源には罪人を赦す主イエスの深い愛の心があることを主張しているのです。

 「広い心」を「理に叶った」と翻訳することも可能だそうです。理に叶って一つの筋を通す。義しさ(ただしさ)を貫くのです。「広い心」「寛容」というと「大目に見る」…つまり筋を通さなければならないのに「いい加減でごまかす」ということにもなりかねません。我々は無責任な“曖昧さ”を好みます。しかし、人間の罪は徹底的に糾弾されなければなりません。だからこそ主イエス・キリストは十字架について下さいました。十字架に「理に叶った」神の「広い心」が現れているのです。

2012年6月3日 礼拝説教要旨

主題聖句:「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

         フィリピの信徒への手紙4章4節

説教主題「喜びの確認」

 この手紙は“喜びの手紙”と呼ばれています。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と既に(2章17,18節)でパウロは述べています。感情は最高潮です。交響曲にはテーマ(主旋律)があって、それが少しずつ調子を変えて、全体の中に時折現れます。それと同じように、この手紙の底流には “喜び”が基調音として流れているのです。

 「喜びなさい!」と言われると、喜びを押し付けられているように感じます。「喜ぼうと思って簡単に喜べるくらいなら、何も苦労はしません。喜べない状況の中にいるから悩んでいるのじゃないか!」と反発を感じるかたもおられるでしょう。だからといって「無理に作って、喜んでいるかのように見せかける」のは虚しいことです。

パウロは第3章から「主にあって喜べ!」と強調します。空っぽの井戸から水を汲み出すことは出来ません。こんこんと湧き出る泉から尽きない水が流れ出るように、キリストという源泉が喜びを生みます。牢屋につながれ、明日は処刑される身の上なのに、どうしてパウロ先生は喜べるのだろう? ! とても喜べるどころではないはずなのに…。

 喜ぶことのできない状況の中でこそ、その現実を突き破って喜ぶことはできるはずです。「キリストを信じている者は喜べる!」キリスト者は喜べる現実の中に置かれています。この命令は、押し付けではなく、喜べる現実にいることを悟らせ、信者を喜びの中に招いているのです。


2012年5月27日 礼拝説教要旨

主題聖句:「わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」      

フィリピの信徒への手紙4章2節

説教主題「喜びの確認」

 エポディアにしてもシンティケにしても、この箇所にしか出てこない固有名詞です。二人が婦人でフィリピの信者の交わりをつくりあげるのにパウロと共に戦ったということくらいしかわかっておりません。(3節)ただ、どうも二人は仲違いしているようで、「主において同じ思いを抱け」と名指しでパウロから勧められています。良いことで手紙に名前を書かれるならまだしも、同じ思いが持てないことで勧められると、恥ずかしかったし、反論したい気持ちもあったかもしれません。その後2000年、キリストの教会で、このような形で名が残ることになるとはこの二人、夢にも思わなかったでしょう。「あの二人仲が悪かったんだって」と言われるより、「あの二人はお互い同士を愛しあい、赦しあう関係だった」と言われる方が良いに決まっています。

 パウロは、自分だけが罪を犯したことがなく、公正な裁判官の立場に立って、過ちを糺してやろうとしているのではありません。自分も主イエス・キリストに罪赦されたものとして、勧めているのです。「勧め」は「お説教」をする(ガミガミと小言を言う)ことではなく、「慰める」のです。この二人の婦人が勧めの言葉を受け入れてくれるように「真実な協力者」に助力を求めます。高みから叱られただけでは、二人は心を閉ざし反発するだけかもしれません。この「協力者」とは「共にくびきを負うもの」という意味があります。この婦人たちだけを悪者にせず、執り成し助ける仲間の存在が、「慰め」には必要なのです。