2012年11月4日 礼拝説教要旨

「神を試す罪」

 

マタイによる福音書 第4章5-7節

 

政所 邦明牧師

主題聖句:『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてあると言われた。

                             マタイによる福音書 第4章7節             

  悪魔は「石をパンに変えろ」と誘惑した後、神殿の屋根から飛び降りるように促します。普通常識的に考えて高いところから飛び降りるなど、無益で無意味なことです。勇気ある行動どころか、危険でしてはいけない愚行と言えるでしょう。

神が守ってくださるかどうかを試そうと悪魔は誘ってきます。「神は私のことを愛してくださっていないのじゃないか」と疑わせるのです。

愛し合っている二人の場合を考えてみてください。「私を愛しているか、その証拠を見せてほしい」と相手に要求したとすれば、こんな失礼な言い方はありません。人を馬鹿にした話です。「『愛のしるしがほしい。証拠を見せろ』と言うのであれば、わたしのことを信用しろ!」と反論するでしょう。

主イエスは病気の人を癒すなどの奇跡を行われます。愛と憐れみの心がほとばしり出て、そうなさるのです。それが主イエスの奇跡の意味です。癒しを神の子の証明のために用いられません。癒された人の中には、愛に感じ入って、「この方こそ救い主ではないか」と思い始める人も現れました。

聖書では“証拠”のことを“しるし”と言います。主イエスは「ヨナのしるし以外には、何も与えられない」(マタイ福音書第12章39節)と言われました。ヨナが3日3晩大きな魚の中にいてそこから出てきたように、主イエスは十字架で死んで、3日目に甦られました。神殿から飛び降りて、無事なところを見せ、人々をアッと言わせる必要はありません。この復活の中に、わたしたちを赦してくださる愛のしるしが現れているからです。

2012年10月28日 礼拝説教要旨

「神の言葉によって生きる」

マタイによる福音書 第4章1-11節

政所 邦明 牧師

主題聖句:「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

マタイによる福音書 第4章4節

  主イエス・キリストは公の宣教活動に入られる前に悪魔から試みを受けられました。その際、“霊”に導かれています。腕試しをしたいというような慎重さを欠く主イエスご自身の動機からではありません。神の支配のもとで受けられた試練です。激しい攻撃の最中も、聖霊で武装されていたのです。

“神を信じるかどうか”の誘惑を主イエスは受けられました。主が十字架に向かって進まれないように悪魔は誘惑し、十字架への道を阻もうとしたのです。…「十字架なしで救いに至ることはできないか」…そのような誘惑は何時の時代も起こり、キリストの教会をたえず揺さぶり続けました。

「十字架への信仰を標榜することは時代遅れだ」と批判され、「十字架など無力で人を罪から救いはしない」と罵られます。その攻撃に負けて、教会が自分たちの信仰の基盤を無くしたらどうでしょうか。救いに対する確信は十字架にあるはずです。

最初「石がパンになるように命じたらどうだ」と悪魔は主イエスに語りかけました。日毎必要な糧を神に真剣に祈り求めるのとは違います。神を抜きにして、神とは無関係に、この石にパンになれと命じなさいと言うのです。わたしたちは神が愛してくださる、導いてくださると知ってはいても本気になって、力の限り祈ることはしないのではないでしょうか。いい加減なことをしておいて、「神はどのような答えをくださるか高みの見物と決め込もう」と不遜で不誠実な態度に出ることがあります。主イエスはみ言葉をもって誘惑を退け、力の限り祈り、神に信頼する道を切り開かれたのです。

2012年10月21日 礼拝説教要旨

「主イエスの洗礼 」

マタイによる福音書 第3章13-17節

政所邦明牧師

主題聖句:「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった」
    マタイによる福音書 第3章16節

バプテスマのヨハネがユダヤ地方の荒れ野に現れ、「神のもとに立ち返りなさい。」と悔い改めを宣べ伝えます。さらにヨルダン川沿いに行き、水で洗礼を授けておりました。しかし、ヨハネは自分の奉仕の限界を知っています。「自分は水で洗礼を授けるけれども、これはあくまで準備にすぎない。わたしの後から主イエス・キリストがおいでになる。この御方は聖霊によって洗礼を授けてくださる。水による洗礼は聖霊による洗礼を前もって形に表すだけだ。しかし、聖霊による満たしと支配とが起こらなければ、単なる形だけのことになってしまう。」とヨハネは考えていたのではないでしょうか。

水で洗礼を授けているヨハネのところに群集に埋もれるようにして イエス・キリストが来られました。ヨハネから水で洗礼を受けるためです。ヨハネは戸惑います。自分はこの方の履物を脱がせる値打ちもないし、自分の方がこの方から洗礼を受けたいくらいだと思っていたからです。
主イエスが洗礼をお受けになった後、ヨハネが目の当たりにしたのは天が主イエスに向かって開かれ、聖霊が鳩のようにこの方に降られる出来事でした。水で洗礼を受けた人に、さらに主イエスが聖霊によって洗礼をお授けになることをヨハネは知っていたでしょう。しかし、イエス御自身が聖霊に満たされるのを目撃させられるとまでは思わなかったはずです。ヨハネは自分の語ったことにますます確信を持ったに違いありません。聖霊に満たされたお方が、聖霊を授けてくださることによって、自分の授ける水による洗礼が、神の御前に、実態の伴う真実な救いになるのを確信したのです。