動画配信サイトをU-streamからYoutubeに変更しました。
これによって スマートフォンでも礼拝動画を見ていただけるようになりました。
動画配信サイトをU-streamからYoutubeに変更しました。
これによって スマートフォンでも礼拝動画を見ていただけるようになりました。
「愛」
コリントの信徒への手紙一 第13章13節-14章1節
政所邦明牧師
主題聖句:「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である。」
コリントの信徒への手紙一 第13章13節
どんなに価値があるものでも変化し、劣化し、最後に滅びて無くなってしまうものであれば、虚しいでしょう。「万物流転!世の中とはそうしたものさ」と諦めがちに言うこともあります。パウロも、預言、異言、知識など今教会で重んじられているものも、やがては廃れ、途絶えてしまうと申します。それはそれらのものに力がないからではありません。預言などの働きが必要でなくなる時が来るからです。完成の時まで一定の期間使命を与えられます。しかし、完成の時を迎えたならば、預言はその使命と役割とを終えるのです。
それに比べて信仰、希望、愛だけは残る。その3つのうちでもっとも大いなるものは愛だとパウロは言います。「愛は決して滅びない」(同章8節)この箇所は愛を讃えている「愛の讃歌」と言われます。たとえ、愛の素晴らしさを歌い上げ、憧れたとしても、そのような完全な愛を経験できなければ何の意味もありません。わたしたちが日常で経験する愛は移ろいやすく、裏切りや失望や幻滅を伴うものではないでしょうか。とても「いつまでも残る」とは言えません。ここで言われている愛は好きになったり、嫌いになったりの“人間の情愛”とは区別された聖霊の賜物としての神がくださる愛です。しかも愛だけが残るとは言わないで、信仰も希望も永遠に残ると言っています。これらの2つと切り離した愛ではなくて、信仰や希望と深く結びついた愛です。―神に信頼し、期待を寄せる愛―信仰も希望も最後には愛に行き着き、愛に尽きると言えるでしょう。信仰とは主イエス・キリストの十字架の赦しを抜きにして考える事はできません。ここにこそ愛の源があるのです。
「希望」
ロ-マの信徒への手紙 第5章1-5節
政所邦明牧師
主題聖句:「希望はわたしたちを欺くことがありません」
ローマの信徒への手紙 第5章5節
パウロは別の手紙で「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。」(コリントの信徒への手紙一 第13章13節)と書いています。「これこそ大切だ」と判断して追い求めても、それらのものが途中で消えて無くなるなら、追求する行為そのものが虚しいと言えるでしょう。「どうせ追い求めるなら、永遠に続くものを!」と誰しもが考えます。そこでこの3つを取り上げます。今日は希望です。
わたしたちが日常生活で使う「希望」はどうでしょうか。「希望的観測」などと言います。「そうなったらいいのだけれどなあ~。でもおそらくそうなるまいよ。」希望とは自分の都合が良いように勝手に空想することと考えがちです。多くの場合、願う前から実現不可能なことだと諦めています。そうなればもう希望とは言えないでしょう。「希望が失望に終わる」それは希望の本質からして明らかに矛盾です。何と虚しい話ではありませんか。
パウロは上記のローマの信徒への手紙で「希望はわたしたちを欺かいない」と申しました。わたしたちが日常経験で用いる希望とは違うようです。この言葉の少し前に「神の栄光にあずかる希望」(第5章2節)という言葉が出てきます。それはイエス・キリストの十字架と復活の救いによって、神との正しい関係(平和)の中に入れられたことを根拠にしているのです。わたしたちの思い入れの強さではなく、神の救いの確かさが基になっています。さらに念を押すように「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(5章5節)とはっきり保証をしてくれているのです。
「平和を創り出す者」
マタイによる福音書 第5章9節
政所邦明牧師
主題聖句:「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
マタイによる福音書第5章9節
平和の問題はいつでも考えるべきものです。でも、8月は特にそのことを思わずにはおれません。第二次世界大戦と結びつけてしまいます。もちろんここで平和の大切さを訴え、戦争をしてはいけないということをわたしは言おうとしているのではありません。「聖書の言う平和とは何か」を思い巡らしたいのです。ヘブル語で「平和」は「シャローム」と言う言葉です。「こんにちは」とか「おはよう」など挨拶にも使い、今日の教会でも時々耳にします。日常ごくありふれた生活の中に「神が創りだしてくださる平和が あなたにあるように」と言って互いに挨拶を交わし合うのは、さすがに信仰に生きている人々だなと感心させられます。わたしたちの日本語の「おはよう」も「こんにちは」もよく考えてみれば、わかったようでわからない内容の言葉です。それに比べ、聖書は「まことの平和と平安とは神からくる」との信仰に立ち、「神から来る平和があなたに!」という深い意味を人と出会った時、挨拶の言葉にするのです。
聖書では「平和」も「平安」も一つの言葉です。「神によって富まされている」というのが元の意味です。ただ戦争をしないで仲良くするというだけではなく、神によって恵まれ、祝福され、大切にされる。神との関わりなしにはこのような豊かな状態はもたらされることはありません。「主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」(民数記第6章26節)神が顔をそむけず、向い合ってくだされば、この神との信頼に生きる人間に、自ずと神の平和と平安とが祝福となって訪れるのです。