2014年2月9日 礼拝説教要旨

人間ダビデ

 

政所 邦明 牧師

 

ルツ記 第4章13-22節

マタイによる福音書 第1章1-17節

 

主題聖句:「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、…エッサイはダビデ王をもうけた。」

マタイによる福音書 第1章1、2、6節 

                                   

今から3000年前にベツレヘムに生まれたダビデは、羊飼いの少年からイスラエルの王になった人です。その名は旧約聖書では800回ほど、また新約聖書でも60回も出てきます。「聖書(旧約)はご自分について証言をする書物だ」とイエス・キリストは言われました。旧約聖書のみならず新約聖書も、もちろんそうです。[ヨハネ福音書5:39]イエス・キリストを知るために信仰者は聖書を読みます。「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちから甦ったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」[テモテへの第二の手紙2:8 口語訳]ですから、キリストを知り、信じるためにはダビデを知るのがとても大事なのです。

 

ダビデは多様な面を持った人物です。王になるまではもちろんのこと、王になってからも“凄まじい、戦(いくさ)”を内外の敵と繰り広げます。それだけでなく、心の内では自らの罪と“のた打ち回るように”戦いました。そして苦悶の果てに、神に立ち返るのです。その姿から信仰を教えられます。

 

詩編にはダビデの作とされるものが数多く残っています。豊かな文学性を備えた作品です。しかも、すべてに信仰が満ち溢れています。神に訴え、嘆き、祈ることをダビデは知っていました。祈りのうちに罪を悔い改め、神のもとにこそ赦しのあることを、わからせていただいたのです。神に愛された罪人、神を信じて、従ってゆこうとする姿を人間ダビデの中にみます。①ダビデを知ることはイエス・キリストを知ること、さらに ②信仰生活を知ることに通じていると思います。それゆえに、ダビデの生涯を学びたいのです。

2014年2月2日 礼拝説教要旨

召命に応えて立つ時

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第55章6-13節

マルコによる福音書 第1章16-20節

主題聖句:「イエスは『わたしについて来なさい。…』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」

マルコによる福音書第1章17、18節

ガリラヤ湖の岸辺において、ふたりの漁師シモンとアンデレとに「わたしについて来なさい」と主イエスは声をかけられます。二人は“すぐに”従いました。“すぐに”ということから「信仰とは何か」を考えさせられます。

 

“すぐに”とは二人には何の準備もなかったということでしょう。主イエスの後に従っていく時、仕事着のままで、まだ足は濡れ、雫が垂れていたかもしれません。何も持たないのです。まじめに働いてきた経験も誇りも知識も、主イエスが人間の救いのために準備なさったことに比べれば、何も役に立たちません。持っているものをかなぐり捨て、ただひたすらに主イエスの後にくっついてゆく、それが信仰なのです。

 

神の子と呼ばれるにふさわしく内実が整い、合格点が出せるようになったら、信仰を持ったことになると考える人は多いでしょう。こちらの教会では初めて来た人にいきなり洗礼を勧めることはありません。受洗準備の期間のあることは確かです。しかし、時間の長さの問題でしょうか?長く通っておられても決心がつかないと言われる方もおられます。「自分のような未熟な者が信者になれば、神様にも、教会にも申し訳なくて…」とお考えになるようです。それではどの基準に達すれば「もう十分準備ができた」と言えるのでしょうか。いつまで待っても同じことではありませんか。“信仰の本質”は極めて単純明快です。「ついて来なさい」と命じられる主のお言葉に“すぐに”従うことだけなのです。こちら側に呼びかけていただく値打ちも資格もありません。呼びかけてくださる主にすべてがかかっているのです。

2014年1月26日 礼拝説教要旨

「福音の宣教」

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第52章7-10節

マルコによる福音書 第1章14-15節

 

主題聖句:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 マルコによる福音書第1章15節 

悔い改め”とはいったい何でしょう? 心を入れ替えて少しでも“真っ当な人間”になることでしょうか。努力すれば、少しは親切で真面目な人間になれるかも知れません。「悔い改め」とは「心の回れ右をすることだ」と説教する時、わたしはよく申しました。しかし、何から何へ方向転換するのか十分に説いていなかったと反省しています。人間が「大切である」と普通考えるものから、“別のもの”に信頼する対象を替えること、あるいは移すことです。“別のもの”とはいったい何でしょうか?それは福音です。人間にとって一番大切なものだと神が思われて、差し出して下さった救いなのです。この救いを与えるために、ガリラヤで宣教を始められた時からイエス・キリストは十字架を目指し、十字架に向かって進み始められました。

人間にとって価値があるものとはいったい何でしょうか?お金や財産、健康、助けてくれる家族や友人など、いろいろと挙げることができます。その他にもいくつもあるでしょう。その中の例えば、健康を考えるとします。健康は大事です。神の与えて下さった体のために最大限の努力をすることをだれも反対しません。しかし、人間にとって、どんなに価値があると思われていても、罪からの救いよりも大切なもの…救いに代わるものが他にあるでしょうか?健康は大切であっても救いにはなりません。人間が“価値あり”とするものが大事でないとは申しておりません。福音よりどちらが大事かと問うているのです。その福音に目を注ぎ、体も心も、自分のすべての向きを福音へとかえる時、私たちの生活が安定します。それが“悔い改め”なのです。

2014年1月19日 礼拝説教要旨

試みを受けられる主イエス

 

政所 邦明牧師

 

詩編 第91編1-16節

マルコによる福音書 第1章12-13節

 

主題聖句:「…サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」      

 マルコによる福音書第1章13節 

洗礼を受けられ、聖霊が鳩のように主に降られた後に、その聖霊は主イエスを荒野に送り出されます。「送り出す」は「外に投げ出す」、つまり「叩き出した」くらいの強い意味を含むことばです。聖霊はひどい“仕打ち”を主にされたのでしょうか?

 

信仰生活を送る時、身の回りに困難な出来事が起こってきます。たとえそれを神が望んでおられるとわかったとしても、必ずしも好ましいと思いません。おそらく私たちが自己中心で、神の深い配慮を理解できないからです。遭遇する困難は試練とも言えます。その試練の中に神がわたしたちを押し出されます。主イエスは公の生涯に入られる前に、わたしたちに先駆けて試練を受けてくださいました。その事自体、慰めではないでしょうか。「罪は犯されなかったが、あらゆる点で、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ人への手紙第4章15節)とある通りです。

 

荒野には“野獣”がいます。うっかりすれば、野獣に命を奪い取られるかも知れません。緊張を強いられます。人と擦れ合い、疲れを感じる私たちの日常生活とあまり変わりません。その中を主イエスは通られます。その時に天使も主に仕えていました。「聖霊が荒れ野に放り出した」と聞くと、ひどいことをなさると思います。しかし、「わたしの愛する子」と呼びかけられる父はその言葉を裏切り、放り出しておしまいにはなりません。…“野獣”が主と一緒にいても天使も又、いる。…試練と同時に守りも与えられる神のご真実を、この荒野の誘惑からわたしたちは知ることができるのです。