2012年7月15日 礼拝説教要旨 

「いつも用意して」

フィリピの信徒への手紙 4章10節

政所邦明牧師

主題聖句:「今まで思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」

フィリピの信徒への手紙4章10節

 この手紙の第2章にエパフロディトという人がフィリピの教会から来たと記されています。おそらく贈り物を携えてやってきたのでしょう。その御礼をしたためるのが、この手紙執筆の第一の動機だったと思われます。「わたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは非常に喜びました。」とパウロは書いています。「ついにまた」とありますから、しばらく物をやり取りする関係が途絶えていたのでしょうか。冬枯れの草木が、春になると芽吹き、花を咲かせえるように、パウロへの愛が再び花開いたと言うのです。「表してくれた」を「花を咲かせる」と訳している人がいます。(岩隈直) 人間の愛にはしばしば失望させられます。移ろいやすく、当てにはならないからです。花開いたかと思えば、しぼんでしまい、そして枯れる。「フィリピの教会の人々の心は、どうせまた変わる」とパウロ先生は冷ややかに見ていなかったのでしょうか。しかし、人の愛を直接見るのではなく、フィリピの教会の人々に働きかけておられる神の愛をパウロは信じておりました。「主にあって非常に喜んでいる」と申します。神の愛は裏切ることはありません。また主イエス・キリストのご愛を信じているからこそ、限界はあってもキリストの愛に促される人の愛を信じることができたのです。それまで、厚意を贈り物に託してパウロのもとに届けたいという願いはフィリピの人々にもありました。ただ機が熟していなかっただけです。送るのにもっともふさわしい時を備えてくださるのも神なのです。

2012年7月8日 礼拝説教要旨

「徳を心にとめよ」

 

フィリピの信徒への手紙 4章8-9節

政所邦明牧師

主題聖句:「…徳や称賛に値することがあれば、それに心を留めなさい。…そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」

フィリピの信徒への手紙4章8節,9節

 「平和の神」とてもよい響きですね。他の手紙で、「平和の源である神」とか「愛と平和の神」などとパウロは似た表現を使います。“平和は神からくる”という確信があるのでしょう。この4章7節でも神の平和があなたがたをキリスト・イエスによって守ると述べています。

 平和とは穏やかな波風の立たない状態を考えがちです。どのようなことが起こっても動じない鉄壁の心を当時のギリシャの人々は求めていました。しかし、8節から始まる一連の徳目「すべて真実なこと、気高いこと、正しいこと…」など8つことを心に留めようとすれば戦いが必要です。「心に留める」とはもともと「勘定に含める」という意味で、先を見通して前もってよく考え計画を立ててゆく、予算に組み入れて「織り込み済み」にしておくことです。すべてのことを自分の事のように熟慮し、心配りをする。そのために大変なエネルギーを使うのです。

 安穏とした生活をするためには ―「事を荒立てない」で黙っている方が、都合は良い。―そのようになりかねません。いくら平穏無事を願っても、自己中心の心から平安を乱す思いが内側からが突き上げてきます。どのみち戦いは避けられません。「『平和の神』が与えてくださる平安を勝ち取るために戦うのか!」と神は問いかけられます。平和とは戦いをくぐり抜けて与えられる平和なのです。しかし、パウロは保証します。その戦いの最中に「平和の神はあなたがたと共におられます。」

2012年7月1日 礼拝説教要旨

「神の与える平和」

フィリピの信徒への手紙 4章7節

政所邦明牧師

主題聖句:「あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」             

フィリピの信徒への手紙4章7節

 

 「人知を超える」…何と小気味のよい言葉でしょうか。人間は自分が賢いと自惚れています。なんでも知っている。あまつさえ、なんでもできるとまで思い上がります。しかし、しょせん“浅知恵”にしか過ぎません。早晩行き詰まって、思い煩いに陥るのが関の山でしょう。自分の心と思いとは思いのままになりません。荒波にさらされる小舟のように揉みくちゃにされます。気を鎮め、平安をつかもうとすればするほど、逆に指の間から平安がするりと抜け落ちてゆく。自分の心ほど始末に困るものはありません。自己の努力による平安を獲得しようとすることにおいて無力と惨めさを思い知らされます。

 ところが、困り果て弱り果てた時、わたしたちを超えた世界から「人知を超える平安があるよ」との喜びの調べが聞こえてきます。「何をそんなにアクセクし、気を揉んでいるのか!おやめなさい!愚かなことです。」どんなにもがいてもあがいても人知を超える平安に叶うはずがありません。感謝を込めて祈りと願いをささげ、神に打ち明ける。何もかもお任せする。その時、神の実力が身にしみわかります。神の勝利宣言の前にわたしたちは素直に負けを認めざるを得ない。それだけでなく、「人知を超える平安」の力に圧倒されるのです。この平安は私たちの主イエス・キリストからもたらされます。「平安を残してゆくが、それは世が与えるものとは異なる」と主は言われました。(ヨハネ福音書14:27口語訳)まさに人知を超えた平安が私たちを守ってくださるのです。

2012年6月24日 礼拝説教要旨     郷家一二三牧師

主題聖句:「死を司る者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」

              ヘブライ人への手紙第2章14-15

説教主題「解き放たれて生きる喜び」

 普通の生活の中では、だれも自分が「死の恐怖の奴隷」であるとは気づきません。でも周囲の人々の死に出会って、幼い子供も子供なりに死の恐れを感じとります。友人を事故で失った私は、彼の遺体の前に座り込んで、自分の体の震えがとまらなかったことをはっきり覚えています。

その恐れの奴隷にされている本当の原因が何であるかを、聖書のこの言葉がはっきりと示します。死をつかさどる者が、わたしたち人間を巧妙におどして、律法どおりに正しく生きていないと責め立て、罪を示し、その結果は死だ、との恐れを心に植えつけていくのです。悪魔とありますが、確かに自分が願う生き方が自由にできない現実にであうと、それは意志の弱さではなく、責め立てては脅す悪の力の支配なのです。

 主イエス・キリストがわたしたちを解放してくださいました。神の子である罪のないお方が、わたしたちと同じ血と肉を供えた死ぬ人間となられ、わたしたちの罪の裁きを十字架ですべて受けてくださいました。 責め立てられる思いは消え、この救い主におゆだねするなら、心の底から晴ればれとした気持ちになり、漠然とした不安は消え去るのです。

- ここに福音の光が差し込み、解放の讃美が響きます。死の奴隷からの解放記念日とは、今日のこの礼拝です。わたしたちは本来の人間の自由な姿とされ、身も魂も主イエス・キリストのものとされて生きるのです。