2012年8月5日 礼拝説教要旨  

「平和を創り出す者」

マタイによる福音書 第5章9節

政所邦明牧師

主題聖句:「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

マタイによる福音書第5章9節

 

  平和の問題はいつでも考えるべきものです。でも、8月は特にそのことを思わずにはおれません。第二次世界大戦と結びつけてしまいます。もちろんここで平和の大切さを訴え、戦争をしてはいけないということをわたしは言おうとしているのではありません。「聖書の言う平和とは何か」を思い巡らしたいのです。ヘブル語で「平和」は「シャローム」と言う言葉です。「こんにちは」とか「おはよう」など挨拶にも使い、今日の教会でも時々耳にします。日常ごくありふれた生活の中に「神が創りだしてくださる平和が あなたにあるように」と言って互いに挨拶を交わし合うのは、さすがに信仰に生きている人々だなと感心させられます。わたしたちの日本語の「おはよう」も「こんにちは」もよく考えてみれば、わかったようでわからない内容の言葉です。それに比べ、聖書は「まことの平和と平安とは神からくる」との信仰に立ち、「神から来る平和があなたに!」という深い意味を人と出会った時、挨拶の言葉にするのです。

 

聖書では「平和」も「平安」も一つの言葉です。「神によって富まされている」というのが元の意味です。ただ戦争をしないで仲良くするというだけではなく、神によって恵まれ、祝福され、大切にされる。神との関わりなしにはこのような豊かな状態はもたらされることはありません。「主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」(民数記第6章26節)神が顔をそむけず、向い合ってくだされば、この神との信頼に生きる人間に、自ずと神の平和と平安とが祝福となって訪れるのです。

2012年7月29日 神の義について(本日の説教と別の内容です。)

 

「神の議について」

 

政所邦明牧師

 

「…今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが今この時に義を示されたのは…」

ローマの信徒への手紙3章25節、26節

  「筋を通す」と言う言葉があります。「物事の道理を曲げない」、「一つのきちっとした筋道を貫き通す」ことです。妥協する誘惑と戦わなければなりません。「智に働けば、角が立つ。情に棹(さお)させば流さる」(漱石)しかし、筋が通っていれば、一時は反発されても、「筋を通す人」は次第に信頼を受けるようになるはずです。

神が「ご自分の義を貫き通される」とはどういうことでしょう。神の喜ばれないことばかりをする人間たちをノアの洪水の時のように滅ぼしてしまうのも一つの方法です。わたしたちは怒りに任せてせっかちに行動してしまいます。しかし、神は「忍耐」をされました。忍耐する期間を設けられます。ためらってグズグズしておられたのではありません。神は永遠の昔から、罪人が裁かれ、滅びる以上のこと、単なる忍耐以上のものを備えておられました。罪人の罪が赦され、救われ、神との正しい関係の中に移し入れられる道です。神はその怒りよりも大きくいらっしゃいます。神の忍耐と愛とは、怒りよりも一層豊かで、強力なのです。このような義の現し方かたは、わたしたちの考えに及びもつきません。「怒りと忍耐」、「審判と憐れみ」とが一つの業に纏められて、わたしたちに示されます。その業とは主イエス・キリストの十字架の死とお甦りに他なりません。わたしたちを救おうとしてご自分の義をこのように貫かれるのは、ありがたいことではありませんか。