カテゴリー: あゆみ
2012年8月26日 礼拝説教要旨
「信仰」
ローマの信徒への手紙 第3章21―26節
政所 邦明 牧師
主題聖句:「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」
ローマの信徒への手紙 第3章22節
信仰とは「信じる」とか「信頼する」とかに言い直せる言葉です。類語に“信心”があります。何をどう信じるか、信じている教義が必ずしもハッキリしていなくてもいいようです。「イワシの頭も信心から」と言われるように「信仰内容よりも、なんでも素直にありがたがる“熱心さ”“信心深さ”が大切なのだ」ということになりかねません。「それだけ熱心に信心していると、何か良いこともあるはずだ」と皮肉交じりに言う人もいるでしょう。
キリストの教会が伝える「信仰」は“何を信じるか”が明確です。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(ローマの信徒への手紙第1章17節)「福音」を信じるのです。福音の中に“神の義”が啓示されています。“神の義”とはいったい何でしょうか。“神の義”は神がお造りになったことを忘れ、神に背いた人間に表されます。人間は何よりも神に対して罪を犯しました。人間を処罰し、滅ぼす道もあったはずです。しかし、神はそうはなさいませんでした。イエス・キリストをわたしたち罪人の身代わりに十字架につけ、滅ぼすのではなく、救ってくださったのです。私たちは救いに関しては全く無力で、自分で自分を救うことはできません。それではどのような道が残されているのでしょうか? ―神が与えてくださったものを、素直に感謝して受け入れる― その道だけです。信仰とは、神が準備し、イエス・キリストにおいて提供してくださった救いを、受け取ること、信頼することです。罪を赦されて嬉しいと喜ぶ者でなければ、救いを信じる事はできません。
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2012年8月19日 礼拝説教要旨
「愛」
コリントの信徒への手紙一 第13章13節-14章1節
政所邦明牧師
主題聖句:「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である。」
コリントの信徒への手紙一 第13章13節
どんなに価値があるものでも変化し、劣化し、最後に滅びて無くなってしまうものであれば、虚しいでしょう。「万物流転!世の中とはそうしたものさ」と諦めがちに言うこともあります。パウロも、預言、異言、知識など今教会で重んじられているものも、やがては廃れ、途絶えてしまうと申します。それはそれらのものに力がないからではありません。預言などの働きが必要でなくなる時が来るからです。完成の時まで一定の期間使命を与えられます。しかし、完成の時を迎えたならば、預言はその使命と役割とを終えるのです。
それに比べて信仰、希望、愛だけは残る。その3つのうちでもっとも大いなるものは愛だとパウロは言います。「愛は決して滅びない」(同章8節)この箇所は愛を讃えている「愛の讃歌」と言われます。たとえ、愛の素晴らしさを歌い上げ、憧れたとしても、そのような完全な愛を経験できなければ何の意味もありません。わたしたちが日常で経験する愛は移ろいやすく、裏切りや失望や幻滅を伴うものではないでしょうか。とても「いつまでも残る」とは言えません。ここで言われている愛は好きになったり、嫌いになったりの“人間の情愛”とは区別された聖霊の賜物としての神がくださる愛です。しかも愛だけが残るとは言わないで、信仰も希望も永遠に残ると言っています。これらの2つと切り離した愛ではなくて、信仰や希望と深く結びついた愛です。―神に信頼し、期待を寄せる愛―信仰も希望も最後には愛に行き着き、愛に尽きると言えるでしょう。信仰とは主イエス・キリストの十字架の赦しを抜きにして考える事はできません。ここにこそ愛の源があるのです。
2012年8月12日 礼拝説教要旨
「希望」
ロ-マの信徒への手紙 第5章1-5節
政所邦明牧師
主題聖句:「希望はわたしたちを欺くことがありません」
ローマの信徒への手紙 第5章5節
パウロは別の手紙で「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。」(コリントの信徒への手紙一 第13章13節)と書いています。「これこそ大切だ」と判断して追い求めても、それらのものが途中で消えて無くなるなら、追求する行為そのものが虚しいと言えるでしょう。「どうせ追い求めるなら、永遠に続くものを!」と誰しもが考えます。そこでこの3つを取り上げます。今日は希望です。
わたしたちが日常生活で使う「希望」はどうでしょうか。「希望的観測」などと言います。「そうなったらいいのだけれどなあ~。でもおそらくそうなるまいよ。」希望とは自分の都合が良いように勝手に空想することと考えがちです。多くの場合、願う前から実現不可能なことだと諦めています。そうなればもう希望とは言えないでしょう。「希望が失望に終わる」それは希望の本質からして明らかに矛盾です。何と虚しい話ではありませんか。
パウロは上記のローマの信徒への手紙で「希望はわたしたちを欺かいない」と申しました。わたしたちが日常経験で用いる希望とは違うようです。この言葉の少し前に「神の栄光にあずかる希望」(第5章2節)という言葉が出てきます。それはイエス・キリストの十字架と復活の救いによって、神との正しい関係(平和)の中に入れられたことを根拠にしているのです。わたしたちの思い入れの強さではなく、神の救いの確かさが基になっています。さらに念を押すように「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(5章5節)とはっきり保証をしてくれているのです。