2012年10月28日 礼拝説教要旨

「神の言葉によって生きる」

マタイによる福音書 第4章1-11節

政所 邦明 牧師

主題聖句:「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

マタイによる福音書 第4章4節

  主イエス・キリストは公の宣教活動に入られる前に悪魔から試みを受けられました。その際、“霊”に導かれています。腕試しをしたいというような慎重さを欠く主イエスご自身の動機からではありません。神の支配のもとで受けられた試練です。激しい攻撃の最中も、聖霊で武装されていたのです。

“神を信じるかどうか”の誘惑を主イエスは受けられました。主が十字架に向かって進まれないように悪魔は誘惑し、十字架への道を阻もうとしたのです。…「十字架なしで救いに至ることはできないか」…そのような誘惑は何時の時代も起こり、キリストの教会をたえず揺さぶり続けました。

「十字架への信仰を標榜することは時代遅れだ」と批判され、「十字架など無力で人を罪から救いはしない」と罵られます。その攻撃に負けて、教会が自分たちの信仰の基盤を無くしたらどうでしょうか。救いに対する確信は十字架にあるはずです。

最初「石がパンになるように命じたらどうだ」と悪魔は主イエスに語りかけました。日毎必要な糧を神に真剣に祈り求めるのとは違います。神を抜きにして、神とは無関係に、この石にパンになれと命じなさいと言うのです。わたしたちは神が愛してくださる、導いてくださると知ってはいても本気になって、力の限り祈ることはしないのではないでしょうか。いい加減なことをしておいて、「神はどのような答えをくださるか高みの見物と決め込もう」と不遜で不誠実な態度に出ることがあります。主イエスはみ言葉をもって誘惑を退け、力の限り祈り、神に信頼する道を切り開かれたのです。

2012年10月21日 礼拝説教要旨

「主イエスの洗礼 」

マタイによる福音書 第3章13-17節

政所邦明牧師

主題聖句:「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった」
    マタイによる福音書 第3章16節

バプテスマのヨハネがユダヤ地方の荒れ野に現れ、「神のもとに立ち返りなさい。」と悔い改めを宣べ伝えます。さらにヨルダン川沿いに行き、水で洗礼を授けておりました。しかし、ヨハネは自分の奉仕の限界を知っています。「自分は水で洗礼を授けるけれども、これはあくまで準備にすぎない。わたしの後から主イエス・キリストがおいでになる。この御方は聖霊によって洗礼を授けてくださる。水による洗礼は聖霊による洗礼を前もって形に表すだけだ。しかし、聖霊による満たしと支配とが起こらなければ、単なる形だけのことになってしまう。」とヨハネは考えていたのではないでしょうか。

水で洗礼を授けているヨハネのところに群集に埋もれるようにして イエス・キリストが来られました。ヨハネから水で洗礼を受けるためです。ヨハネは戸惑います。自分はこの方の履物を脱がせる値打ちもないし、自分の方がこの方から洗礼を受けたいくらいだと思っていたからです。
主イエスが洗礼をお受けになった後、ヨハネが目の当たりにしたのは天が主イエスに向かって開かれ、聖霊が鳩のようにこの方に降られる出来事でした。水で洗礼を受けた人に、さらに主イエスが聖霊によって洗礼をお授けになることをヨハネは知っていたでしょう。しかし、イエス御自身が聖霊に満たされるのを目撃させられるとまでは思わなかったはずです。ヨハネは自分の語ったことにますます確信を持ったに違いありません。聖霊に満たされたお方が、聖霊を授けてくださることによって、自分の授ける水による洗礼が、神の御前に、実態の伴う真実な救いになるのを確信したのです。

2012年10月14日 礼拝説教要旨

「ヨハネと主イエス」

 

ルカによる福音書 第3章15-20節

 

政所邦明牧師

 

主題聖句:「ヨハネは…罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」         

ルカによる福音書第3章3節

 

バプテスマのヨハネがヨルダン川沿いの地方で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた頃、民衆はメシア(救い主)を待ち望んでおりました。そしてこのヨハネが救い主かもしれないと心の中で思っておりました。(同福音書3章15節以下)そのこころを見通すかのように「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」とヨハネは申します。このあと、主イエスはヨハネのもとに来て、民衆に紛れ、その中に埋もれるようにして洗礼をお受けになります。

ヨハネは自分と“優れた方”の違いを述べます。―自分は水で、その方は聖霊と火で洗礼を授ける―この点が違います。水による洗礼はこの御方の聖霊と火による洗礼によって、完成を見ると言いたいのでしょう。

「罪の赦しを得させる悔い改め」という言葉はルカによる福音書の終わりの方でもう一度出てきます。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ第24章47節)準備のための「悔い改めの洗礼」ではなく、「悔い改め」そのものが起こります。それではその「悔い改め」はどのようにして起こるのでしょうか。苦しみを受け、3日目に死者の中から復活するメシアの名によるのです。(24:26)全存在が神の方に向き、完全に神に支配されて生き始めるのが“悔い改め”です。その実現のために神の子の十字架と復活という大きな御業があったことを改めて思わされます。聖霊と火による洗礼の実態は主イエス・キリストの救いの業です。神のお働きが人に真実の悔い改めを促し、造りだすのです。