2014年3月16日 礼拝説教要旨

  憎しみに勝つ道

政所 邦明 牧師

サムエル記上 18:1-16

ヨハネによる福音書 15章12-17節

 

中心聖句:「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」

                                サムエル記上 第18章1節                                    

サウル王の息子ヨナタンとダビデとの友情をサムエル記はとても美しく描いています。その一方、サウル王はダビデを妬ましく思います。自分よりも華々しい武勲を立て、民衆から英雄のようにもてはやされるからです。“愛と憎しみ”いや“愛と妬み”の中でダビデが苦しみます。ダビデの姿は「人間」の普遍的な姿を表しているのではないでしょうか。“愛と妬み” に苦しまない人などひとりもおりません。理想的な友情も「嫉妬に狂う先王」に脅かされる苦しみもここには、描かれています。縄のようにある時は愛が、またある時は妬みが現れます。それがありのままの人間の姿なのでしょう。

 

愛と妬みとを抱え込んだ人間の歴史にイエス・キリストは入り込んでくださいました。「ダビデの子孫としてお生まれくださった」というのはその意味です。そのキリストは「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない」と言われました。ダビデとヨナタンとの友情は単なる好き嫌いを超えています。神が仲立ちとなり、契約を結んだと言われているのです。二人の愛は、キリストがわたしたちに与えてくださる契約を予め示しているのではないでしょうか。十字架を前にして最後の晩餐の時「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と主イエスは言われました。契約が結ばれるために十字架の犠牲がささげられました。キリストの赦しなくして、憎しみと妬みとに勝つ愛は与えられません。キリストの愛が妬みさえも乗り越えさせ、救ってくださるのです。

 

2014年2月23日 礼拝説教要旨

おびえるな

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記上 第16章14-23節

ヨハネによる福音書 第14章25-27節

 

中心聖句:「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルの心が休まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。」

(サムエル記上 第16章23節) 

                                   

「自分の蒔いたことは自分で刈り取らねばならない」と聖書にあります。サウルは自分の利得に走ったために、王位から滑り落ちることになります。今しばらくは王として振る舞うでしょうが、後は時間の問題です。神の前にはすでに決着がついてしまいました。

「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。」…サウルの惨めな有り様がそのように表現されています。王位を失う悔しさ、失いたくないと執着する心がサウルを苦しめたのでしょう。

「悪霊を神が送られるはずはない」と常識的にわたしたちは考えます。その意味はおそらくこうでしょう。サウルは自分の犯した罪の報いを骨身に染みて味わっています。神はそれをお許しになるのです。苦しみを通して、罪を認め、赦しを神に求めるようになるかもしれません。苦悩は悔い改めの契機にもなります。悔い改めるかどうかは、サウルにかかっているのです。

旧約聖書のヨブ記にはサタンがヨブを“ふるいにかける”ことを神が許された(第1章12節)とあります。攻撃に曝されても、悪霊もまた神のご支配のうちにあります。苦しみの時も決して神はお見捨てになりません。

サウルのもとにダビデが連れて来られます。ダビデは優れた賛美歌作者です。ダビデの作と言われるものが詩編にたくさん収められています。悪霊に襲われるとき、ダビデの詩がサウルの心を神に向かわせます。悪霊は神に決して勝てません。そのことをダビデの賛美歌はサウルに教えたのです。