2012年11月25日 礼拝説教要旨

「 歓迎されない主イエス 」

 

政所邦明牧師

 

ルカによる福音書 第4章20-30節

 

主題聖句:「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」

 ルカによる福音書 第4章18,19節 

                

主イエスが故郷ナザレの村の会堂で語られた説教を聞いていた人々は素直に感動したと思います。「わたしたちのよく知っている同じ村の大工ヨセフの息子が、これだけの説教ができる。たいしたものだ」と感心し、褒めたのです。しかしこの「ヨセフの子ではないか」という言葉は全く逆の面をも合わせ持っていました。―「優れた話をすると言ったって、よく知っているイエスの言葉にすぎないじゃないか。たかだか程度は知れている」― このように高をくくり、自分たちの経験の範囲内で主イエスの本質を捕らえようとしたのです。

このナザレの会堂で礼拝なさる前には、カファルナウムを始めとするガリラヤ地方のいろいろな町で宣教をされ、癒しの業をなさったようです。「ヨセフの子    ではないか」という言葉の中に、「この程度の説教ではまだ信頼できん。もっと奇跡を行え。他の町でできたのなら、それがまぐれ当たりじゃなくて、いつでもどこでもできることを示してみよ。」と要求し始めることを見抜いておられました。傲慢な話です。

しかし、主イエスがわたしたちにもたらしてくださる救いとは何かを本当に知らなければ、自分たちが気に入るまで、アッと言わせる奇跡を求めつづけることでしょう。それは自分本位で、見当違いの要求です。

キリストにおいて神がもたらそうとなさる救いは、ナザレの人々が考えてもみなかったものでした。十字架にかかり、私たちを罪からお救いになるのです。そのような救い主の来られるのを待つのが待降節なのです。

2012年11月18日 礼拝説教要旨

「ただ主に仕えよ」

 

政所 邦明牧師

 

ルカによる福音書 第4章16-30節

 

主題聖句:「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を…告げ、主の恵の年を告げるためである。」

ルカによる福音書 第4章18,19節 

                

「捕らわれている人に解放を…」とあります。わたしたちはいろいろなものに捕らわれます。何かに執着したり、こだわったりするのは心の中に引っかかるものがあるからでしょう。昆虫が蜘蛛の巣に捕らえられて身動きが取れなくなった状態になっている姿を思い浮かべます。わたしたちを縛るものはわたしたち自身の罪です。

主イエスは生まれ故郷のナザレの村の会堂で、安息日に説教をされました。その日に定められていたイザヤ書第61章のみ言葉が係の人によってまず朗読されます。そして「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言って語り始められます。その時、会堂にどのような響きがたったかを想像します。

この当時の世界では、王やその他の支配者は取り立てるばかりではなく、温情で年貢などの免除を告げることもあったはずです。おそらく伝令がやってきて喜びの知らせを読み上げたのでしょう。朗読者は読んでいくうちに内容がわかります。読む調子も自ずと弾んだのではないでしょうか。王の代理ですから威厳をもって、しかも喜んで読み、民衆は、聞いた瞬間「わぁー」と歓声を上げたかもしれません。

ナザレの会堂で イザヤの預言に基づいて、罪の捕らわれ、縛られている人間に「罪の赦し」を主イエスは宣言されました。その赦しが出来事として起こるのが礼拝の場です。イエス・キリストは「今日」と言われました。罪の赦しの宣言は今の教会の礼拝においても、時空を越えて起こるのです。

 

2012年11月11日 礼拝説教要旨 

「 ただ主に仕えよ 」

 

政所 邦明 牧師

 

マタイによる福音書 第4章8-11節

主題聖句:『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある

              マタイによる福音書 第3章16節 

                

「ひれ伏してわたし(悪魔)を拝むなら」と最後に“悪魔礼拝”へ誘いました。3つの誘惑の最後についに本性をむき出しにします。「この俺を礼拝しろ」という目標に向け着々と準備をしてまいりました。

十戒の第1回で「わたしをおいてほかに神があってはならない。」と神は命令されました。父なる神をひたすらに神とする。それ以外のものは神としない。膝を屈めて礼拝もしない。これが命令の内容です。それに悪魔は背かせようとするのです。

高い山へ主イエスを連れてゆき、すべての国々の繁栄ぶりを見せ、あらゆる欲望を満たしてあげようと誘(いざな)います。交換条件は「私を拝め」です。「悪魔に魂を売り渡す」と言います。欲望を満たすためなら、良心を偽っても相手の事をどんなことでも聞く、その支配に膝を屈するというのでしょうか。しかし、神を礼拝することと、それ以外のものを礼拝することとは両立はしません。お互いに相反目し合います。悪魔は神礼拝の否定を要求してきたのです。

誘惑は、悪いことをしているとわかっていても強引に引きずり込む恐ろしい力を持っています。あれよ、あれよという間に悪魔の術中に陥り、偶像礼拝にしてしまっていることになりかねません。

主イエスは「いいえ」あるいは「否」を言って誘惑を断る以外にないことを身をもって教えてくださいました。それは裏を返して言えば、ただひたすらに神に仕えることを明言し、神礼拝の態度決定をすることなのです。

 

2012年11月4日 礼拝説教要旨

「神を試す罪」

 

マタイによる福音書 第4章5-7節

 

政所 邦明牧師

主題聖句:『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてあると言われた。

                             マタイによる福音書 第4章7節             

  悪魔は「石をパンに変えろ」と誘惑した後、神殿の屋根から飛び降りるように促します。普通常識的に考えて高いところから飛び降りるなど、無益で無意味なことです。勇気ある行動どころか、危険でしてはいけない愚行と言えるでしょう。

神が守ってくださるかどうかを試そうと悪魔は誘ってきます。「神は私のことを愛してくださっていないのじゃないか」と疑わせるのです。

愛し合っている二人の場合を考えてみてください。「私を愛しているか、その証拠を見せてほしい」と相手に要求したとすれば、こんな失礼な言い方はありません。人を馬鹿にした話です。「『愛のしるしがほしい。証拠を見せろ』と言うのであれば、わたしのことを信用しろ!」と反論するでしょう。

主イエスは病気の人を癒すなどの奇跡を行われます。愛と憐れみの心がほとばしり出て、そうなさるのです。それが主イエスの奇跡の意味です。癒しを神の子の証明のために用いられません。癒された人の中には、愛に感じ入って、「この方こそ救い主ではないか」と思い始める人も現れました。

聖書では“証拠”のことを“しるし”と言います。主イエスは「ヨナのしるし以外には、何も与えられない」(マタイ福音書第12章39節)と言われました。ヨナが3日3晩大きな魚の中にいてそこから出てきたように、主イエスは十字架で死んで、3日目に甦られました。神殿から飛び降りて、無事なところを見せ、人々をアッと言わせる必要はありません。この復活の中に、わたしたちを赦してくださる愛のしるしが現れているからです。

2012年10月28日 礼拝説教要旨

「神の言葉によって生きる」

マタイによる福音書 第4章1-11節

政所 邦明 牧師

主題聖句:「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

マタイによる福音書 第4章4節

  主イエス・キリストは公の宣教活動に入られる前に悪魔から試みを受けられました。その際、“霊”に導かれています。腕試しをしたいというような慎重さを欠く主イエスご自身の動機からではありません。神の支配のもとで受けられた試練です。激しい攻撃の最中も、聖霊で武装されていたのです。

“神を信じるかどうか”の誘惑を主イエスは受けられました。主が十字架に向かって進まれないように悪魔は誘惑し、十字架への道を阻もうとしたのです。…「十字架なしで救いに至ることはできないか」…そのような誘惑は何時の時代も起こり、キリストの教会をたえず揺さぶり続けました。

「十字架への信仰を標榜することは時代遅れだ」と批判され、「十字架など無力で人を罪から救いはしない」と罵られます。その攻撃に負けて、教会が自分たちの信仰の基盤を無くしたらどうでしょうか。救いに対する確信は十字架にあるはずです。

最初「石がパンになるように命じたらどうだ」と悪魔は主イエスに語りかけました。日毎必要な糧を神に真剣に祈り求めるのとは違います。神を抜きにして、神とは無関係に、この石にパンになれと命じなさいと言うのです。わたしたちは神が愛してくださる、導いてくださると知ってはいても本気になって、力の限り祈ることはしないのではないでしょうか。いい加減なことをしておいて、「神はどのような答えをくださるか高みの見物と決め込もう」と不遜で不誠実な態度に出ることがあります。主イエスはみ言葉をもって誘惑を退け、力の限り祈り、神に信頼する道を切り開かれたのです。

2012年10月21日 礼拝説教要旨

「主イエスの洗礼 」

マタイによる福音書 第3章13-17節

政所邦明牧師

主題聖句:「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった」
    マタイによる福音書 第3章16節

バプテスマのヨハネがユダヤ地方の荒れ野に現れ、「神のもとに立ち返りなさい。」と悔い改めを宣べ伝えます。さらにヨルダン川沿いに行き、水で洗礼を授けておりました。しかし、ヨハネは自分の奉仕の限界を知っています。「自分は水で洗礼を授けるけれども、これはあくまで準備にすぎない。わたしの後から主イエス・キリストがおいでになる。この御方は聖霊によって洗礼を授けてくださる。水による洗礼は聖霊による洗礼を前もって形に表すだけだ。しかし、聖霊による満たしと支配とが起こらなければ、単なる形だけのことになってしまう。」とヨハネは考えていたのではないでしょうか。

水で洗礼を授けているヨハネのところに群集に埋もれるようにして イエス・キリストが来られました。ヨハネから水で洗礼を受けるためです。ヨハネは戸惑います。自分はこの方の履物を脱がせる値打ちもないし、自分の方がこの方から洗礼を受けたいくらいだと思っていたからです。
主イエスが洗礼をお受けになった後、ヨハネが目の当たりにしたのは天が主イエスに向かって開かれ、聖霊が鳩のようにこの方に降られる出来事でした。水で洗礼を受けた人に、さらに主イエスが聖霊によって洗礼をお授けになることをヨハネは知っていたでしょう。しかし、イエス御自身が聖霊に満たされるのを目撃させられるとまでは思わなかったはずです。ヨハネは自分の語ったことにますます確信を持ったに違いありません。聖霊に満たされたお方が、聖霊を授けてくださることによって、自分の授ける水による洗礼が、神の御前に、実態の伴う真実な救いになるのを確信したのです。

2012年10月14日 礼拝説教要旨

「ヨハネと主イエス」

 

ルカによる福音書 第3章15-20節

 

政所邦明牧師

 

主題聖句:「ヨハネは…罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」         

ルカによる福音書第3章3節

 

バプテスマのヨハネがヨルダン川沿いの地方で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた頃、民衆はメシア(救い主)を待ち望んでおりました。そしてこのヨハネが救い主かもしれないと心の中で思っておりました。(同福音書3章15節以下)そのこころを見通すかのように「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」とヨハネは申します。このあと、主イエスはヨハネのもとに来て、民衆に紛れ、その中に埋もれるようにして洗礼をお受けになります。

ヨハネは自分と“優れた方”の違いを述べます。―自分は水で、その方は聖霊と火で洗礼を授ける―この点が違います。水による洗礼はこの御方の聖霊と火による洗礼によって、完成を見ると言いたいのでしょう。

「罪の赦しを得させる悔い改め」という言葉はルカによる福音書の終わりの方でもう一度出てきます。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ第24章47節)準備のための「悔い改めの洗礼」ではなく、「悔い改め」そのものが起こります。それではその「悔い改め」はどのようにして起こるのでしょうか。苦しみを受け、3日目に死者の中から復活するメシアの名によるのです。(24:26)全存在が神の方に向き、完全に神に支配されて生き始めるのが“悔い改め”です。その実現のために神の子の十字架と復活という大きな御業があったことを改めて思わされます。聖霊と火による洗礼の実態は主イエス・キリストの救いの業です。神のお働きが人に真実の悔い改めを促し、造りだすのです。

2012年10月7日 礼拝説教要旨

手ずから書いた手紙

政所邦明牧師

 

フィリピの信徒への手紙 第4章21-22節 

主題聖句:「主イエス・キリストの恵が、あなたがたの霊と共にあるように。」         

フィリピの信徒への手紙 第4章22節 

        

 パウロはフィリピの信徒への手紙を書き終えるに当たり、まことに要領よく、簡潔な挨拶と祝福の祈りで締めくくります。一説ではパウロは目の病気を患っていたと言われます。これまでの件(くだり)は身の回りの世話をしてくれる誰かに口述筆記をして貰ったのかもしれません。英文タイプが何十年も前から普及していた欧米でも、手紙の最後は自筆でサインします。パウロも最後は自筆で書いたのではないでしょうか。

外交辞令に陥りやすい挨拶の部分にもパウロの信仰が現れます。私たちはよく「あなたのために祈っています」と書きます。そう認め(したため)ながら、相手のためにどれほど祈ったであろうかと反省させられるのです。…「本当に祈っている人は恩着せがましく『祈っています』と軽々しく言わないのではないだろうか」との思いが頭をよぎります。… 祈りにおいてこそ「不言実行」が求められるのです。

「偽善者たちは人に見てもらおうと、…祈りたがる。しかしあなたがたは彼らのまねをしてはならない」と主イエスは言われました。「むしろ隠れたところにおられるあなたがたの父に祈りなさい」と勧められます。[マタイ第6章5~8節]どんな内容を何時、どのように祈るかはその人と神との間の秘密です。親子であっても、配偶者であっても立ち入ることはできません。神に対する絶対信頼があり、この御方さえ知っておられればよいし、一番確かだと思っているからです。結びのさりげない一行にパウロの深い祈りを垣間見る思いがします。見せようとしたのではなくほとばしり出たのです。

2012年9月23日 礼拝説教要旨

 アーメン

 

政所邦明牧師

 

フィリピの信徒への手紙 第4章20節

 

主題聖句:「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、  

アーメン。」        

フィリピの信徒への手紙 第4章20節

         

 信仰をお持ちでない方も「アーメン」という言葉はおそらく聞かれたことがあると思います。わたしたちがキリスト者と分かると「あなたはアーメンか?」と聞かれます。そして、その人は胸の前で十字を切る真似をします。しかし、キリスト教の代名詞のように使われるこの「アーメン」は本当の意味をよく理解されていないのではないでしょうか。同じ宗教団体に属する者同士が、互いの気分を盛り上げるために使う“合言葉”と誤解されているなら、まことに残念なことです。

「アーメン」はもともと「本当です」とか「真実です」とかの意味です。祈りの最後に付けて、「真心からそのように信じ、同意する」気持ちを表します。しかし、それ以外に「アーメンである方、誠実で真実な証人…」(ヨハネの黙示録第3章14節)のように形容詞としての用い方もあります。アーメンである方とはイエス・キリストで、この御方こそご真実で、すべての人からほめたたえられるお方だと言うのです。「アーメン、ハレルヤ」と並べられる場合もあります。「ハレルヤ」と言うのが「神がほめたたえられますように!」という意味ですから、「アーメン」も同様に神を称える心を持って「そのとおり、みんなから讃美を受けられますように」との思いが込められます。イエス・キリストこそ真実なお方です。神は罪深い人間を救うために神の独り子を十字架におつけになる方法を取られました。そのなさりかたに、御子は心から「アーメン」と言って同意され、従われました。このようなご真実の故にキリストこそ「アーメン」、誠に信頼出来るお方なのです。

2012年9月16日 礼拝説教要旨

「 見えないものに目を注ぎ 」

 

政所邦明 牧師

コリントの信徒への手紙二 第4章16-18節

 

主題聖句:「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

コリントの信徒への手紙二 第4章19節 

        

 今日は主のもとに召された方々の写真を会堂に飾り、礼拝をしております。お一人お一人の人生を思い起こすと懐かしさがこみ上げて参ります。おそらく艱難の多いご生涯だったとはずです。しかし、信仰をお持ちだったので、その重荷に押しつぶされることなく、“ひとときの軽い艱難”と言うことができました。そもそも“軽い”とか“重い”とかは比較の問題で、「この地上で一生受ける艱難の重さは神の御前に立たせられる栄光に比べれば、遥かに軽い。」とパウロは言っています。苦闘している本人にとっては必死なので聞きようによっては腹が立ちます。しかし、「苦労してはいるがそれは大したことはないでしょう。我慢しなさい。」と無責任に気休めを言っているわけではありません。 ―神から必ず誉れをいただける。その栄光はどれほど価値があり、栄光に富んだものであるか― と語っているのです。

この重みのある永遠の神の栄光は目に見えません。信仰の目をもってしか、理解できないことです。今日、信仰の諸先輩方を偲ぶとき、キリストのためになぜ耐えて生きることができたか、重いのに軽いと感じられたか その秘密が分かるような気がいたします。これらの方々は「見えるものにではなく、見えないものに目を注がれ」たのです。 ―この地上で見えるものには限界がある。やがて消えてなくなることを知っておられた― だから見えるものにしがみつくことも、根拠にすることもされませんでした。永遠に存続する神の栄光だけを見つめて生きて来られたのです。