投稿者: matsuyama-alliance
2015年8月16日 礼拝説教要旨
悟りなさい
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第8章11-21節
主題聖句: 「どうして、今の時代の者たちはしるしをほしがるのだろう。…決してしるしは与えられない。」
マルコによる福音書 第8章12節
「世の中、そして自分の将来はこれからどうなってゆくのだろう?」とわたしたちは心配になります。そのような時、将来を予測する手掛かり、〝しるし〟がほしくなる気持ちはわからないわけではありません。〝しるし〟によって、将来の良くないことに備えようとするのです。
しかし、信仰生活は本来、〝しるし〟(予兆)を必要としないのではないでしょうか。たとえば「信仰の父・アブラハム」を思い浮かべてください。行きなさいと神様が命令された時、アブラハムにはまだ行き先が示されていませんでした。手掛かりは何もありません。しかし、やがて必ず教えてくださるはずだと信じ、「行き先を知らない」でアブラハムは出発します。保証は神様がしてくださった約束だけなのです。
一方で「〝しるし〟は決して与えられない」と言われながら、同じ内容を記しているマタイや、ルカによる福音書では、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と主イエス様は言われました。預言者ヨナは三日三晩大きな魚に飲み込まれ、その後、吐き出されます。ヨナの姿を、ご自分の十字架の死と葬り、さらにはお甦りになぞらえられました。
ファリサイ派の人々にとっては、自分たちが思い描く、 “天からのしるし”と考えるものがあったのでしょう。それに照らすと、十字架と復活よりも、もっと“しるしらしいしるし”があると言って、この人たちは拒絶するかもしれません。しかし、〝しるし〟があるとすれば、救いの〝しるし〟は十字架と復活以外にはありえないと、主イエスは明言されるのです。
2015年8月9日 礼拝説教要旨
神の義
政所 邦明 牧師
ローマの信徒への手紙 第1章17節
主題聖句: 「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
ローマの信徒への手紙第1章16節
日本語の翻訳には現れていませんが、「福音は、」の前に「なぜなら、福音は」と元の言葉には接続詞「なぜなら」が置かれています。16節で、「わたし(パウロ)は福音を恥としない」と言っておいて、「なぜなら福音が、すべての人に救いをもたらす神の力だから」と理由を述べるのです。
新約聖書の中でも、ローマの信徒への手紙は救いについて順序正しく、ハッキリと書いている書物のひとつです。手紙の受け取り手の中には、まだ救いに確信を持てず、「恥」と思っている人がいたのかもしれません。
福音とは〝十字架〟で処刑されたナザレのイエスを〝救い主〟とする信仰です。ローマの人々が、なお複雑な気持ちを持っていたとしても不思議ではありません。パウロ自身は救いの確信を持っています。ほんとうは「恥としない」と言わず、「福音を誇りに思う」と積極的に言いたいのです。
しかし、それでは「恥」と思っている読者との間の距離を詰めることはできません。まずは相手の気持ちを十分に汲み取って、聞き手と同じ地平面に立つことが必要でしょう。そうでなければ、相手の心を開かせ、納得させることはできません。ところが「なぜなら」と、いったん理由を述べ始めると、今度は一歩も怯まない確信に満ちた強い調子に変わるのです。「福音はだれをも救う力を持つ」とパウロは断言しています。ユダヤ人として神から与えられた律法を守ってきた人も、そうでない諸外国の人も、救われるのに何ら差別はありません。福音はダイナマイトような破壊力を持ちます。罪の頑固さは福音の力でないと打ち破れないのです。
2015年8月2日 礼拝説教要旨
泣かなくともよい
政所 邦明 牧師
ルカによる福音書 第7章11-17節
主題聖句: 「主はこの母親を見て、憐れに思い『もう泣かなくともよい』と言われた。…近づいて棺に手を触れられると…」
ルカ福音書第7章13節
ナインという町の門で、葬列に主イエス様と弟子たちとが出会います。町の中から郊外の墓地へ棺を運んでいるところでした。喪主と思われる一人の女性がひときわ目を引きます。嘆き悲しむ様子が際立っていたのです。やもめが一人息子を手塩にかけて育てておりました。その子の葬儀です。母ひとり、子ひとりの関係を引き裂いてしまう死は何と酷いものでしょうか。〝野辺の送り〟に加わった人もなすすべがありません。埋葬へ向かう流れを止めることはできず、その流れに身を任せるだけなのです。
ところがたったひとり、死への行進に立ちはだかった方がおられます。主イエス様は死の奥深くまで踏み込んでゆかれました。命へ向かう戦いが始まります。主イエス様だけが命へ押し戻すことがおできになるのです。「起きよ」と命令されれば、母親を悲嘆にくれさせていた死も逆らうことはできません。父なる神様は主イエス様を死から命の中に引き起こされました。3日間も墓の中におられても、陰府から主イエス様は復活されたのです。強力な敵である〝死〟が母から息子を奪いました。しかし、死を打ち滅ぼして、母に息子をお返しになったのです。
葬列を止められたのは、死に顔を見て、主イエス様が〝お別れ〟を為さりたいからだと人々は思ったでしょう。しばらくは葬列を止めてもやがて、「墓穴への行進が再開される。」と思った瞬間、若者の蘇生が起こりました。主イエス・キリスト様こそ「もう泣かなくてもよい」と言えるだけの実力を備えた大預言者であると人々は思い知ったのです。