2016年1月3日 礼拝説教要旨

従順への招き

政所 邦明 牧師

フィリピの信徒への手紙 第2章12-18節

 

 主題聖句:「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」    

フィリピの信徒への手紙 第2章13節 

                                  

クリスマス礼拝から2週間が経ちました。今日は新年最初の主日礼拝になります。新たな思いでスタートを切りたいものです。

 

第2章12節において“恐れ、おののきつつ、自分の救いの達成に努めなさい”とパウロは勧めます。何を恐れ、何におののくのでしょうか?「失敗すると神様から叱られる」と思い、その恐怖から、恐れるのでしょうか。そうではありません。「神様に崇敬の念を持ちなさい」と言うのです。

 

2章6-11節はイエス・キリスト様を称える讃美歌です。神様であられるお方が神様であることをおやめになることなく、完全な人としてお生まれになりました。それがクリスマスの恵みです。この救い主は、成人し、十字架の死に至るまで父なる神様に従い通されます。その従順を神様はすべて認められ、いっさいの栄誉を御子キリスト様にお与えになりました。

このような主イエス様の従順に対し、〝怖れおののきなさい〟とパウロは勧めます。讃美歌「アメイジング・グレース」に唱われている「言葉に尽くせない驚くばかりの恵みに感動する」のと同じ意味になるのです。

 

〝自分の救いの達成〟は自分でできるものではありません。イエス様を通じて神様がしてくださった救いの業に依り頼むのです。13節でパウロは理由を述べます。「なぜなら、あなたの内面に①まず神様が働きかけてくださる。②次に良い願いを起こさせてくださる。③最後に、神のお心に叶う願いを実現させてくださる。すべてに神様が働いてくださいます。それで、「あなたがたのすることはより頼むだけだ」とパウロは勧めるのです。

2015年12月27日 礼拝説教要旨

今こそ安らかに

政所 邦明 牧師 

ルカによる福音書 第2章12-18節

 

主題聖句: 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」            

ルカによる福音書第2章29節 

  

幼子イエス様が両親に抱かれて神殿に入ってきた瞬間、「主よ、今こそ…去らせてくださいます」とシメオンは語りはじめます。シメオンの言葉は「ヌンク(今)・ディミティス(去らせてくださる)」という題の讃美歌として教会の礼拝で唱われるようになりました。

 

「去る」とは(地上を)去る、すなわち「死ぬ」ことを意味します。まるで「死ぬ」ことを心待ちにしていたかのような言い方です。生きているのが苦痛だったのでしょうか。口では「死にたい」と言いながらだれでも心のどこかでは「何としてでも生き延びたい」と願うはずです。

 

しかし、〝今こそ〟とシメオンがいう時、気持ちが高ぶっているのでしょう。強がりでもなんでもなく「今こそ、安心して死ねる」と本気でいっています。「去る」には「願いが叶ったので、重荷と感じていたことから解放される」の意味が含まれます。ホッとした気持ちが強いのです。

 

「救い主を私の(両)目が(しっかりと)見たから…」― シメオンにとって神様の約束は現実となりました。「この地上にいる間に絶対に救い主に会わせる」と聖霊によって示しを受けていました。救い主に会えて自分は幸せ者だと思ったに違いありません。祝福の中におかれているのです。

2015年、教会員を多く天に送りました。信仰生活50年以上の方もおられれば、召される間際に信仰を言い表した方もおられます。信仰生活の長さは関係ありません。救い主にお会いすることが決定的で、お会いできれば、「思い残すことは何もない」とシメオンは教えてくれているのです。

 

2015年12月20日 礼拝説教要旨

主イエス・キリストの誕生

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第2章1-20節

 主題聖句:「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」    

ルカによる福音書第2章11

 

                                   

救い主がベツレヘムでお生まれになった時、ユダヤの国の人々は夜の静寂の中で眠りについていました。キリスト様の誕生を知らされ、出会ったのは夜通し羊の番をしていた羊飼いたちです。それに飼い葉桶の周りに集まったごく限られた人も加わります。ローマ皇帝に皇子が生まれたなら、国中にお触れを出して、お祝いの行事を行ったことでしょう。

 

それに比べ、真の救い主の誕生をほとんどの人が知らないのは、寂しい気がします。しかし、これこそが実はふさわしい知らされ方だったのです。

 

羊飼いたちは、人口調査の対象から外されていたのでしょうか。人々が先祖の出身地に帰って登録をしている間も、徹夜をして働いています。納税の義務も政府から期待されてはおりません。しかし、過酷な労働には従事しています。羊飼いたちにとって〝救い〟とは、きつい仕事から解放され、収入が増え、社会の一員と認められるようになることでしょうか?

 

もちろん、外側の暮らし向きが良くなるに越したことはありません。でも、1つ良くなれば、別の不満が生まれてくることもあります。生活を改善してくれるだけの政治的指導者が〝救い主〟ではないのです。人の問題は精神や心の問題も含みます。しかし、内面の問題はその人だけが悩み、努力すれば乗り越えられる訳ではありません。いや人間だけでは解決せず、神様に持ってゆく以外にないはずです。神様と関わる人間の一番深い問題を救うために、人間の眠っている間に、神様は働いておられました。それが、救い主の誕生が世間の目から隠されているようにみえる理由なのです。