投稿者: matsuyama-alliance
2016年3月13日 安井弘子姉記
主はアブラムに仰せられた。
「あなたは、あなたのうまれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」 創世記12章1節
ブラジリア・アライアンス・キリスト宣教教会は、上記のみ言葉に示され、「出て」行った二宮睦子(現引退)宣教師の働きによって生まれた教会です。首都ブラジリアで唯一の日系教会で、開拓から今年で56年になります。同師は、日系人のみならずブラジル人伝道にも力を注ぎ、その実は現在3つの教会と3つの伝道所に引き継がれています。その後、ブラジルアライアンス教団が設立され、国内に約30の教会が存在しています。
この度、私共の宣教旅行は、ブラジルアライアンス教団から日本に派遣されている上田ルイス、ターニ宣教師夫妻の協力要請を受ける形で祈りが生まれ、主の導きにより7名のチームで訪日が実現に至りました。上田師の宣教地である関東では、有料老人ホーム等の訪問、教会でのダンスのワークショップ協力等を通し日本に住む日系ブラジル人の現実を垣間見、困難の中にも信仰を守り、次世代に継承させようと努力している姿に、同じ日系教会として励まされました。その後、名古屋、広島、四国の各教会に迎えて頂き、奉仕とお交わりの機会が与えられていることを感謝致します。
メンバーの中には日本が初めての者もいます。ブラジルとは異なる文化の中で述べ伝えられている福音と、主に在る交わりの素晴らしさを体験した一人一人が、これから自分自身の枠を「出て」主が示してくださる「地へ」従って行く者となることを自らも含めて願わされています。(安井記)
2016年3月6日 礼拝説教要旨
宣教に遣わす
政所 邦明 牧師
マタイによる福音書 第10章5-15節
主題聖句:「病人をいやし、死者を生き返らせ、…悪霊を追い払いなさい。ただで受けのだから、ただで与えなさい。」
マタイによる福音書 第10章8節
受難節に入り、十字架を目指して進まれる主イエス様のお姿をたどって礼拝してまいりました。マタイによる福音書第10章は12弟子を選び、主イエス様が宣教に遣わされる話が出てきます。受難とは直接関係ありません。福音書の記述の順番からみれば、はじめに戻ってしまうのです。
しかし、この箇所は主イエス様が与えてくださる〝救い〟について重要な側面を語っています。病気と死の苦しみにある人を解放する権能を弟子たちに授けられました。しかし、主イエス様はエルサレムで処刑されてしいまします。するとそれまで苦労して行ってきた宣教や奇跡などはすべて水の泡になってしまったのでしょうか。
そんなことはありません。重い皮膚病の人が清くされ、悪霊が追い出されるのは十字架によってすべての人の罪が赦される前触れなのです。表面からだけ軽々しく判断し、“癒しは良いしるし、十字架は忌まわしいしるし”と決めつけてはなりません。
この救いに対して、その価値と釣り合いのとれるお返しをわたしたちは神様に差し上げることはできません。一方的にいただく以外にないのです。またその価値をこの世の金銀など貨幣で換算もできません。傷のない主イエス様の命がささげられました。それを“ただで受けた”と言っているのです。粗品であれば、無料で配られることもあるでしょう。しかし、救いはとても高価です。いただいても〝それ相応の見返り、報い〟などできるはずがありません。わたしたちは「ただで受けるだけ」なのです。
2016年2月28日 礼拝説教要旨
十字架の上の主イエス様
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第15章33-41節
主題聖句:「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
マルコ福音書 第15章34節
これまで「天のお父様、アッバ父よ」と、事あるごとに父なる神様に信頼をよせて祈ってこられた主イエス様です。いよいよ息を引き取られる前に「お見捨てになったのですか」と祈られたのはふつうではありません。口にされていた父なる神様への信頼はどこに行ったのでしょう。これまで人々に語ってこられたことを最後の祈りで、すっかりくつがえしてしまわれたのでしょうか。神様を恨むというより、絶望の淵に主イエス様が落ちておられる印象を持ちます。
この祈りは詩編第22編2節のことばそのままです。小さい時から詩編を口ずさみ、ご自分の祈りとされてきたのでしょう。み言葉が深く体に刻みつけられていて、ここぞという時、思わず口をついて出たのです。
ことばのうわべからだけ判断すれば、父なる神様と主イエス様との心のつながりは完全に断ち切られているように思われます。しかし、詩編の方は「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」(22編4節)と続くのです。信頼への告白まで捨ててはおりません。信頼と絶望とは一見矛盾するようでありながら、けっしてそうではないのです。
神様を信じ続けながらの絶望と、父なる神様を見限って叫ぶ絶望とは、たとえ絶望という言葉を使ったとしも、まったく違います。最後の最後まで信頼し抜かれる中で、神様から捨てられる凄まじい恐怖を一滴も残すことなく主イエス様は飲み尽くしてくださいました。その荘厳な有り様を見て「本当に、この人は神の子だった」(14:39)と百人隊長が言ったのです。