2016年8月7日 礼拝説教要旨

             敵を愛しなさい

            三好 晴夫 牧師

        ルカによる福音書 第6章27-36節

主題成句:「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、

あなたがたを憎む者に親切にしなさい」。 

                     ルカによる福音書6章27節

                   

 8月は、平和を覚え祈る月です。71年前の1945年の8月6日の朝、

広島に、続いて9日の朝に、長崎に原子爆弾が落とされ、それぞれの町で1

0数万人の人たちが、一瞬にして犠牲になりました。さらに、8月15日に、

ポツダム宣言を日本政府が受諾し、無条件で降伏して、第二次世界大戦は終

わりました。このような事が続けて起こったこの8月に、私たちは平和を祈

りたいのです。

 

この日に開かれた聖書の言葉が、ルカ6章27節「敵を愛しなさい」です。

この主イエスの教えは、主イエスの言葉を聞いている主イエスの弟子たちと

主イエスを信じる人々に対しての教えです。すなわち、主イエスを求めて、

主の語られる教えに耳を傾けている人に語られた大切な教えです。

 

「敵」という言葉の前に、「あなたがたの」があります。ですから、私を

憎み、侮辱する人です。その人を愛しなさいとは、その人を、神様が無償で

憐れみ深く愛されるその愛でもって愛することです。でもこの教えを私たち

が守るのは不可能と思えます。

 

でも、神はあわれみ深く、主イエスは神の敵であった私たちを愛してくだ

さいました。この愛の迫りを受ける時、敵をも愛するようにされるのです。

2016年7月31日 礼拝説教要旨

良い羊飼いキリスト

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第10章11-18節

主題成句:「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

                  ヨハネによる福音書10章11節

 

 主イエスは、御自分のことを、「わたしは、よい羊飼いである。」と言われました。何と大胆な発言、何と思い切った発言でしょうか。

 

この「良い」という言葉は、「まことの」という意味です。「信頼に足る」という意味です。親身になって心配し、しっかりと守る信頼できるものだということです。では、どんな点で、主イエスはまことの羊飼い、信頼に足る羊飼いなのでしょうか。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」と言われます。つまり、愛する羊の世話をし、その命を守るために、自分の命を捨てる。主イエスはそういう羊飼いであられるのです。

 

当時、自分の羊を持たない雇人がいました。雇われて、給金をもらって、そのためにだけ働く人でした。もし危険なことに直面すると、羊を置いて逃げ出してしまいます。それは、羊のことをあまり心にかけていないからです。羊よりも自分の命や生活が大事だと思っているからです。その雇人が逃げてしまったら、羊は危険な目に遭い、悲惨な状態になってしまいます。しかし、本当に羊のことを心にかけている羊飼いは、羊が困ったことになったとき、親身になって命がけで守ります。

 

羊が自分勝手に迷い込んでしまうことがあるように、私たちも、神様から離れて、自分勝手に進み、迷子の状態になり、危険なことになっていました。そんな私たちを、まことの羊飼いは決して見捨てられません。一緒に苦しみ、捜し続けてくださいます。私たちを救い出すために、自ら進んで十字架にかかって死んでくださり、わたしたちに命を与えて下さいました。ご自分の命を捨てられるのは主イエス・キリストだけです。

 

2016年7月24日 礼拝説教要旨

 もう泣かなくともよい

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第7章11-17節

主題聖句:「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」

                    ルカによる福音書7章13節

 

 

今日は、ナインという町に住むやもめに注目します。ある日、主イエスと弟子たち一行がナインの町の門に近づかれたとき、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、その棺が担ぎ出されるところでした。

 

主イエスは、その母親をご覧になりました。その時、主イエスは、この母親の悲しむ姿と共に、彼女の心の苦しみをも見られたのです。先に夫に先立たれ、残された一人息子も死んでしまい、一人ぼっちになってしまい、女一人でどう生活していくべきか途方に暮れていました。こんな状況の母親に町の人たちは、じっと寄り添っていました。

 

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。深い悲しみが母親を支配しています。主イエスはじっと彼女を深く憐れまれたのです。「憐れむ」という言葉は、はらわたがよじれるほどに深く同情するという意味です。その思いをもって、もう泣かなくともよいと語られました。今悲しみで一杯でしょうが、もう泣き続けなくてもよいです。主イエスは深い同情心を示されただけでなく、その悲しみを担ってくださいました。近づいて、棺に触れられると、死んでいた息子に「起きなさい」と声をかけ、息子を母親にお返しになったのです。死んでいた息子を生き返らせて返されました。このような驚くべき御業を救い主イエスが行われたのです。主イエスは私たちのために十字架で死なれ死より復活されましたから、いのちの恵みを下さいます。

 

2016年7月17日 礼拝説教要旨

 ただ、お言葉を下さい

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第7章1-10節

 

主題聖句:「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」

                    ルカによる福音書7章7節

 

 

今日は、百人隊長の信仰に注目します。カファルナウムの町に主イエスが入られたと聞いて、百人隊長は、自分の部下の重い病気の問題の解決を主イエスにお願いしました。

 

その願いを主イエスは引き受けて、百人隊長の家に向かわれたのですが、彼は自分の家にお迎えするのを断りました。自分は非常に小さな者ゆえ、偉大な方を自分の家に迎える資格はないと思ったからでした。それで、彼は主イエスに「ひと言おっしゃってください」と願いました。

 

この申し出に、彼の信仰が表されています。主イエスが、わざわざ自分の家に来られて、病気に苦しむ部下の枕元で、直接その体に触れていただかなくても、主イエスから権威に満ちた御言葉を与えていただくならば、その言葉によって自分の僕は癒されるとの信仰の表明をしているのです。それは、彼が主イエスは権威に満ちたお方であり、その語られる言葉に権威と力があるゆえに、御業がなされると信じたからです。

 

なぜそんなことを彼は信じたのでしょうか。その理由は、百人隊長自身、王から授けられた権威を持つゆえに、部下に命令すれば部下は従うということを経験していたからです。しかも主イエスの持つ権威は自分よりはるかに大きいと認めたからです。私たちも百人隊長の信じたように、主イエスの言葉に権威があると信じてお願いしてみましょう。