投稿者: matsuyama-alliance
2017年4月16日 礼拝説教要旨
あの方は復活なさった
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第16章1-8節
主題聖句:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
マルコによる福音書16章6節
主イエス・キリストは十字架にかけられて確かに死なれました。そしてそのお体は十字架から降ろされて岩で掘って作った墓に納められ、そのまま安息日が始まりました。そして安息日が終わって週の初めの日の朝早く、女性の弟子たちは待ちかねたようにイエスの墓に急ぎました。行って見ると、入り口をふさいでいた大きな石はわきに転がしてあり、墓の中をのぞくことができました。中に入ると、驚くことに墓の中には天使と思われる若者がいて、彼女たちに「あの方は復活なさって、ここにはおられません。御覧なさい。お納めした場所である。」と語ったのです。イエスのお体が墓の中にないことを示し、それは主イエスが復活なさったからだと告げたのです。神の御業によって復活が起こったのだというのです。
さらに弟子たちとペテロとに伝言を託されました。「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」弟子のペテロは主イエスが捕らえられたとき、主イエスを3度も否認してしまい、裏切ったことで随分苦しみ悩んでいました。そのペテロを、神はなおも信頼し、期待し、ガリラヤでお目にかかるというのです。その弱い者に復活された主イエスが現れて励ましを与えて下さるのです。
2017年4月9日 礼拝説教要旨
十字架上の主イエス
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第15章21-39節
主題聖句:三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコによる福音書15章34節
主イエスは人々に神の愛を伝え、人々の病を癒した救い主であり、何の罪も犯していない方なのに、自らをユダヤ人の王と主張して人々を惑わしたと人々から訴えられて、裁判で十字架につけられることが決まり、遂に十字架につけられてしまいました。その裁判の時も十字架の時も、主イエスは何の弁解もせず黙ってその苦しみを耐え続けられました。
昼12時になったとき、全地が暗くなり、それが三時まで続き、三時になったとき、主イエスは大声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。この叫びは神に向かっての叫ぶような祈りです。ご自分の死が間近に迫っている中で、死の恐ろしさを思い、ご自分が神から見捨てられたと感じられたのだと思われます。
見捨てられること、神から見捨てられることは大変恐ろしいことです。
主イエスが神から見捨てられたのは、実は私たち人間の罪を受けとめられて、人間の負うべき罪の大きさを感じられたからです。使徒パウロはそのことをこう説明します。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(Ⅱコリント5:21)神のご計画によって、私たちを罪から救うために、罪のないイエスを十字架につけられ、私たちの身代わりに裁かれ、見捨てられてくださったのです。
2017年4月2日 礼拝説教要旨
主イエスの沈黙
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第15章1-15節
主題聖句:しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
マルコによる福音書15章5節
ユダヤ人の最高法院は主イエスに対して死刑の判決を下しました。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたので、死刑判決の権限はローマのユダヤ総督に置かれていました。それで、ユダヤの指導者たちは翌朝、主イエスを総督官邸に連れて行き、総督ピラトに死刑にするように訴えたのです。そこで、ピラトは裁きの座にイエスを立たせ、イエスに罪があるかどうかを取り調べ始めました。
そこでユダヤの指導者たちは、イエスをいろいろと訴えました。しかし、主イエスはそれに対して何の弁解も反論もせず、終始黙り続け何もお答えになりませんでした。裁判官ピラトが不思議に思う程、沈黙されたのです。その姿は、イザヤ書53章の主のしもべの姿です。神に選ばれた一人のしもべが人々の罪の責任を自分の身に引き受けて、人々に代わって罰せられ、苦しみ、死ぬのです。このしもべは、何の弁明もせず抗議もせず、黙って苦しみに耐えたのです。主イエスは、ご自分を落としいれようとする人々に対して黙ったまま自分に与えられた道を進まれるのです。
その沈黙される主イエスの姿は、ただ我慢し耐え続けておられるのではありません。父なる神の御心に従い、ご自分に与えられた使命の道に進もうとされる姿です。それは、人々が裁かれないで罪から救い出されるために自分のいのちを捨てようとされる、犠牲の愛の姿です。
2017年3月26日 礼拝説教要旨
ゲッセマネの祈り
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第14章32-42節
主題聖句:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
マルコによる福音書14章36節
主イエスは弟子たちと最後の晩餐の時を持たれた後、ゲッセマネの園に行かれました。そこに着くなり、主イエスは弟子たちの前でひどく恐れてもだえ始められました。ご自分が死ぬばかりに苦しいから一緒に祈ってほしいと弟子たちに語られ、ご自分の心の中の苦しみを隠されませんでした。
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと、上記の言葉で祈られたのです。
このとき、主イエスは、何を苦しんでおられたのでしょうか。「この杯」(神の裁き)を自分から取りのけてくださいとの祈りはどういう意味の祈りなのでしょうか。私たち人間はいつか死を迎えます。そして死んだ後、一人一人神の前に自分の行いに対して神の裁きを受けなければなりません。しかし、私たち人間はそんなに悪いものとは思わず、自分が罪深いかを知りません。その結果として神の裁きのあることも知りません。ですから自分たちがいつか迎える死をなんとなく恐れてはいても、死後の裁きについて意識できないのかもしれません。意識できなくても私たちはそのままなら裁かれてしまいます。そのようなよく分かっていない私たちの姿を主イエスはご存じだから、私たちの受けなければならない神の裁きをご自分が背負おうと苦しみ祈り、私たちを救うために十字架に進まれたのです。