2021年2月14日 礼拝説教要旨

安心しなさい。わたしだ。 

三好 晴夫 牧師 

マタイによる福音書 第14章22-36節

 

主題聖句:イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れる  ことはない。」        

マタイによる福音書 第14章27節

 

私たちの人生で、進もうと思い努力するのに、どうにも行き詰まって身動きが取れない事態に遭うことが少なからずあるのではないでしょうか。今日の聖書箇所の弟子たちも、そういう状況に出くわしてしまいました。

 

弟子たちは、直前に主イエスの行われた5千人以上の人々にパンと魚で満腹にされた奇跡を見て、群衆と共に興奮していたことです。主イエスは、弟子たちをその場から離すために、強いて彼らを舟に乗せて、向こう岸に向かわせたのです。主イエスは、揺るがない態度で群衆を解散させて、ご自身は山に行って一人祈りの時を持たれたのでした。

 

一方、舟に乗った弟子たちが進んでいたとき、突然、逆風が襲ってきて舟と弟子たちは波に悩まされたのです。夜、明かりもない中の逆風です。不安と恐怖に中で悪戦苦闘して舟が沈まないように努力したのです。そんな夜が明けるころ、白い物体が近づいてきました。どんどん近づいてきます。弟子たちはおびえて恐怖のあまり叫び声をあげました。すると、白い物体から声がしました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」それは主イエスでした。主イエスが来て下さったのです。主イエスが共にいてくださるのです。彼らはどんなにか安心したのです。私たちも不安の中にあります。その私たちにも主イエスは御声をかけてくださいます。

2021年2月7日 礼拝説教要旨

いやすキリスト 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第15章21-31節

              

主題聖句:  そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。                   マタイによる福音書 第15章28節

 病気のいやしについて、聖書はどう教えているのでしょうか。私たち人間は創造主なる神によって創造された存在で、私たちの命と体も神によって生かされている限りある存在です。そんな私たちは自分の罪の故に弱く、病気にもなりますが、神はいやしてくださるのです。病気になっても、いやされるように、神は自然治癒力で私たちの体を回復するようにしてくださいます。医学や薬などの進歩や研究によって開発される治療を用いて神はいやしてくださいます。それだけでなく、神にいやしを信じて求めていく者に、特別にいやしを与えてくださることもあるのです。ですから、私たちは自分が病気になったとき、神がいやしてくださると信じて祈り求めていくのです。

 

では、どのように神を信じて祈り求めるべきか、今日の箇所から教えられたいと思います。主イエスがある異邦人の住む場所に行かれたとき、カナン人の女性が主イエスに近づき、自分の娘のいやしを願い求めたのです。それに対して主イエスは何の反応もされませんでした。主イエスはイスラエルの民を救うことが自分の使命だと断られたのです。その時、主イエスはイスラエルの祝福を小犬に与えるのはよくないという優しい言い方をされたのです。それを聞いた彼女は神の祝福は大きく、小犬のような者ですがおこぼれにあずかりたいと切に求めたのです。その切実に求める彼女の信仰を聞かれた主イエスは、願い通りいやしてくださったのです。

2021年1月31日 礼拝説教要旨

すぐれた義

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第5章17-20節

               

   主題聖句:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

 マタイによる福音書 第5章17節

 

私たちは、神に喜ばれて安らかに生きるために、神が何を望んでおられるかを知らなければ、分かりません。その神のみこころを表わすものとして、当時のユダヤ人たちは、「律法と預言者」を守らなければいけない、これを無視したら何を拠り所にしていけばいいのか、分からなかったのです。「律法」は彼らにとって大切な戒めでした。

 

主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を…完成するためである」と言われました。「律法と預言者」とは、聖書の中の旧約聖書のことです。主イエスは、旧約聖書を廃止するためではなく、完成するために来られたお方なのです。「律法」とは、神が人間にお与えになった救いの契約です。神が人々を祝福される神となってくださいます。だから、神に対して人間が従うべき務めとして戒めを与えられたのです。その律法を、主イエスは完成されるのです。

 

主イエスが律法を完成されるということは、主がこの戒めを守って生きられたということだけの意味ではありません。私たち人間がこの戒めを守ることができるように、その戒めの本来の意味がどんなものなのかを、ご自分の言葉で教えてくださったということです。それが、主イエスのなさった教えです。そこまでされたのは、人間が罪のゆえに律法を守ることができないからです。主イエスは、人間を罪から救うことによって、人間が神の前にすぐれた義を持つことができるように教え導かれました。