投稿者: matsuyama-alliance
2017年12月17日 礼拝説教要旨
主の道を整えよ
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第1章1-8節
主題聖句:荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
マルコによる福音書 第1章3、4節
今日は教会の暦では待降節第三主日で、主題は、主の道を整えよです。すなわち、先駆者の声を聞いて、救い主をお迎えする備えをすることです。
まずマルコによる福音書1章3節にある旧約聖書の言葉に注目します。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」の言葉は、イザヤ書40章3節の言葉です。これは預言者が、自分の国が滅ぼされて、バビロンの地で捕囚の民として絶望と悲しみの中にあったイスラエルの民に語った預言の言葉です。
当時彼らは荒れ野の状態でした。不安と絶望、怒りと憎しみで、闇が覆い、進むべき道がない状態でした。その彼らのもとに神様が帰って来られるのです。その道を整えなさい。道を開きなさい。心を開いて神様を迎えなさい。そのような日が来るという預言の言葉です。
この預言の言葉が、部分的には、彼らがバビロンから解放されて故郷イスラエルの地に帰ることができ実現しましたが、それだけで終わりませんでした。この預言から6百年後、洗礼者ヨハネにおいて実現したのです。ヨハネはイザヤの預言通り、荒野に現われ、救い主が間もなく来られるから、罪を赦して頂けるように悔い改めよと伝え、道備えをしたのです。
2017年12月10日 礼拝説教要旨
主の言葉を聞きなさい
三好 晴夫 牧師
エレミヤ書 第36章1-10節
主題聖句:「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。」
エレミヤ書 第36章2節
今日は教会の暦では待降節第二主日で、主題は、神の言葉を深く覚えることです。世界のベストセラーは聖書です。どうして多くの人に読まれているかというと、内容のすばらしさもありますが、聖書の言葉を一人でも多くの人に読んでもらおうと聖書を配っている人たちの努力があるからだと思います。では、そういう人々がそこまでして人々に聖書を届けようとするのでしょうか。それは、聖書の言葉に命があり、希望があり、人を救う力があるからです。皆さんも、これまでの経験の中で、聖書の言葉によって励まされ、元気をもらったという経験があるのではないでしょうか。自分が励まされたから、人にもぜひ味わってもらいたいのです。
ではどうして聖書の言葉に命があり、救う力があるのでしょうか。聖書には、神様が私たちを愛しておられ、救おうとしておられるということが書かれてあるからです。この神様の愛を知って救われてほしいという神様の願いが聖書に溢れているので、聖書のメッセージに耳を傾けるべきなのです。このエレミヤ書36章には、預言者エレミヤがこれまでずっと人々に伝え続けてきた預言(神の愛、人々の罪とその結果としての裁き、悔い改めの勧め)を書記官に記録させて再度人々に聞かせようとしたとあります。そうして人々が自分の罪に気づき立ち返ることを願ったからです。
2017年12月3日 礼拝説教要旨
主の救いが現れる
三好 晴夫 牧師
イザヤ書 第51章4-11節
主題聖句:わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき わたしの腕を待ち望む。
イザヤ書 第51章5節
2000年前に、救い主イエスがお生れになったとき、何の前触れもなく、突然にお生まれになったのではありませんでした。旧約聖書の昔から、預言者たちが、やがて救い主がお出でになり、救ってくださるとの預言を伝え、その預言を聞いたユダヤの人々はそれを希望にして目の前の苦しみに耐えて過ごしたのでした。そのように救い主を待ち望んだ彼らのもとに救い主がお生まれになったのです。今年のアドヴェント(待降節)の時、その姿に見倣って、救い主の御降誕を待望したいのです。
今日は待降節第1主日として、イザヤ書51章を読みます。当時のイスラエルの民は、自国を大国バビロンによって滅ぼされ、バビロンで捕囚の身となり、絶望と苦難の中にありました。その彼らに、大いなる希望が示されたのです。「わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。」正義というと、正しい秩序、正しい裁きというように思われます。しかし、神の正義は人を生かすものです。神の救いそのものです。そのことは、苦難のしもべの預言に示されました。神はその裁きを人に負わせるのではなく、主のしもべの上に負わせて、人々を救い出すというのです。そこに示されているのは、人々を何としても救おうとされる神の大きな愛です。その神の救いが救い主によって現されるのです。