投稿者: matsuyama-alliance
2018年1月7日 日曜礼拝(動画)
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2018年1月7日 礼拝説教要旨
神に守られ成長する
三好 晴夫 牧師
ルカによる福音書 第2章41-52節
主題聖句:イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
ルカによる福音書 第2章52節
幼子イエスは、いったいどのように成長して大人になって行かれたのでしょうか。そのことを知りたい私たちですが、聖書にはそのことについてほとんど記されていません。唯一、少年期の様子を伺い知ることが出来るのが、両親が少年イエスを連れて祭りの慣習に従って都エルサレムに上り、礼拝をささげたときの出来事です。
このようにエルサレムで両親と共に礼拝をささげたことを記録することによって、神の子イエスが、ほかのユダヤ人の子どもと同じようにイスラエル民族に義務づけられたことを守ったことを伝えています。
祭りが終わって帰る時、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかったのです。親族が集団になって移動したでしょうから、自立しつつあった少年が両親の目から離れていても不思議ではありません。しかし夜になっても親元に戻らないとなれば、心配するのが親心です。それから彼らは親戚の間を探し回ったが見つからなかったので、ついにエルサレムまで戻って三日後に神殿の境内でイエスを見つけたのです。両親は驚き、厳しく叱責しました。すると、イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしは自分の父の家にいるのか当たり前だということを知らなかったのですか」という返事でした。少年イエスは父なる神を自分の父と自覚しておられるほどに、成長しておられたのです。
2017年12月31日 礼拝説教要旨
救い主の誕生を喜ぶ
三好 晴夫 牧師
ルカによる福音書 第2章22節-38節
主題聖句:「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
ルカによる福音書 第2章29、30節
幼子イエスはお生まれになって40日が経過し、律法の定めに従って両親はその子を主に献げるためにエルサレムに連れてきた時のことです。
エルサレムに、シメオンというイスラエルが救われるのを待ち望んでいた年老いた人がいました。主の遣わす救い主と会うまでは決して死なない、とのお告げを受けていました。彼が聖霊に導かれて神殿の境内に入った丁度そのとき、イエスの両親が主にいけにえをささげるために幼子イエスを抱いてそこに来たのでした。
シメオンはこの幼子を自分の腕に抱き、神様をたたえました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」 彼はお告げを受けていた通りに、自分の目で主の救いを見たという喜びに溢れました。これで自分は安らかに役目から解放され、去ることが出来ます。
それは、この幼子が、神様がすべての人のために整えられた救いそのもの、とシメオンに分かったからです。そのことを彼は大変感激し喜んでいます。そしてこの救いは、シメオンだけにではなく、神さまの恵みによってすべての人に表されていくのです。イエスによって与えられる主の救いは、み言葉を通して聖霊によって私たちも味わうことが出来るのです。
2017年12月24日 クリスマス礼拝説教要旨
救い主がお生まれになった
三好晴夫 牧師
ルカによる福音書 第2章1-7節
主題聖句:ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ルカによる福音書 第2章6、7節
冬至が過ぎました。今まで早く暗くなり夜が明けるのも遅かったのが、これを境に昼の時間が長くなっていきます。この時期に、まことの光として救い主イエス様がお生れくださったことを祝うクリスマスを迎えています。救い主の恵みを受けて私たちの心も明るくされたいのです。
2千年前、天使からマリアは身ごもって男の子を産むという御告げを受け、その御告げを信仰を持って受け入れ、夫ヨセフとマリアは救い主が生まれるのを楽しみにしていました。その時皇帝から住民登録の勅令があり、ヨセフは住民登録をするために自分の出身地ベツレヘムに行かなければならなくなりました。彼は身重のマリアを連れて長旅をし、やっとベツレヘムに着き、そこに居る間に彼女は月が満ち、初めての子を産みました。その時、その子は神の御子ですのに飼い葉桶に寝かされなければなりませんでした。飼い葉桶は家畜の餌を入れる桶です。そういう物になぜ神の御子を入れなければならなかったのか。「宿屋に彼らの泊まる場所がなかったから」でした。その町には自分のことで一杯で、彼らのことを気遣う心を持つ人がいなかったから神の御子が飼い葉桶に寝かされたのです。でもそれが神の御子が人となって共に生き始めるのにふさわしい場所でした。