2018年2月4日 礼拝説教要旨

いやすキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第2章1-11節

 

主題聖句:イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。   

マルコによる福音書  第2章5節

    

私たちが病気で苦しむとき、主の名によっていやしを求めて祈るように勧められています(ヤコブ5:14)。私たちの肉体のいやしを求める祈りを主は聞いて、私たちを回復へと導いてくださるのです。ヤコブの手紙には、病気のいやしを求める祈りに続いて、罪のゆるしを求めて祈るように勧めています。病気が起こるのは、必ずしも自分の罪からではなく、疲れとか、不摂生とか、周囲からの感染の場合が多いでしょう。でも病気で苦しむ最中で、自分の弱さやわがままが出て来て、罪深い状態になってしまうことがあります。ですから、病気で苦しんでいるとき、病気のいやしを求めるとき、まず罪を赦していただくことを求めるべきなのだというのです。

 

今日の聖書箇所に出てくる中風の人は、4人の友人の助けによって主イエスのもとに連れて来られました。その時大勢の人がイエスのおられた家に溢れていたので、4人の友はあきらめないで、思いがけない所からその中風の人を主のもとに連れて行きました。主イエスはその姿をご覧になって、彼らの信仰と見て下さいました。

 

そしてその中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われました。主イエスがそう言われたのは、その人に必要なことが罪の赦しであり、ご自身が罪を赦す権威を持つ御方だからです。主は私たちの罪を背負って死んでくださいました。主を信じて主から罪の赦しの言葉をいただきましょう。

 

2018年1月28日 礼拝説教要旨

種まきのたとえ

 

三好 晴夫 牧師

 

マルコによる福音書 第4章1-9節

 

主題聖句: イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

  マルコによる福音書  第4章2、3節

 

主イエスが人々に神の福音を宣べ伝えられる時、ユダヤ人の会堂だけでなく、湖のほとりでも、主イエスのおられる場所がそのまま教える場所になりました。今日の箇所で、主イエスが湖のほとりに教え始められたのも、そこに主イエスがおられたからでしょう。主イエスは舟に乗って腰を下ろし、そこから湖の湖畔にいる群衆に向けて教え始められました。

 

「イエスはたとえでいろいろと教えられました」。イエスがたとえを使って人々に話されたことが、度々あったのです。イエスの話されるたとえは実際に日常生活に見受けられる事柄を使っての話なので、話しそのものは分かりやすいのです。しかし、たとえの意味する事は何かとなると分かりやすいとは言えません。なぜかというと、たとえの意味は、神の国の秘密に関することだからです。神の国の秘密は隠されているからです。

 

「種まきのたとえ」は、種蒔く人が畑に種を蒔く様子のお話しですから、人々に理解しやすいものでした。しかし、主イエスはその意味を群衆には説明されませんでした。でも、自分の方から、その意味を尋ねた12弟子とイエスの周りにいた人たちには、その意味を説明されました。今日、私たちもその意味を知って、主イエスの語られる神の言葉をよく聞いていきましょう。そうするならば私たちの心に救いの実が結ぶことでしょう。

2018年1月21日 礼拝説教要旨

わたしについてきなさい

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第1章14-20節

 

主題聖句:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

   マルコによる福音書  第1章17、18節

 

洗礼者ヨハネが捕えられたという緊張事態が起こったとき、この時こそご自分が立ち上がるべき時と主イエスは認められて、福音宣教を開始されました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

主イエスはこの福音宣教を一人でなさいませんでした。仲間を集められました。その仲間を見出すために、ガリラヤの湖のほとりを歩かれ、そこで働く人々の様子をじっと見つめながら、探されました。その主イエスの目は「人間をとる漁師」の目でした。

 

そこで働く漁師たちは、夜通しの漁を終え岸に戻り、なおも岸近くで漁をしていました。また、網を洗い繕っている人たちもいました。主イエスは彼らの様子をじっと見ておられました。主イエスは彼らを、神の愛の中に招こうという愛の目でじっとご覧になっておられました。そして彼らに「わたしについて来なさい」と呼びかけられました。

 

この招きの言葉は、大変驚くべき突然の招きです。しかし、その声を聞いた彼らは、主イエスの招きと「人間をとる漁師にしよう」という約束の言葉に、すぐに従いました。この神様の権威と愛と選びに満ちた力強い招きに、彼らは網も舟も捨てて主イエスのあとについていき、弟子とされました。主は私たちをもごらんになり、主のもとに招いておられます。

2018年1月14日 礼拝説教要旨

あなたはわたしの愛する子

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第1章9-11節

 

主題聖句:そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。      

マルコによる福音書  第1章9節

 

私たちがキリストの教会の一員としての歩みは、主イエスを自分の救い主として信じることを公に表明する洗礼(バプテスマ)を受けるから始まります。どうして洗礼を受けるのでしょうか。それは、主イエスが公の生涯の始まりに、まず洗礼を受けられたからです。同じ洗礼を私たちも受けることで、私たちは主イエスの仲間であることが示されるのです。そこから主イエスを信じて教会の一員としての歩みが続いて行きます。

 

主イエスが受けられた洗礼について、今日の箇所から学んで行きます。

 

「そのころ」すなわち、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えたときです。そのメッセージを伝え聞いたイエスは、故郷ガリラヤのナザレから出て来て、ヨハネのもとに近づいたのです。ヨハネから、罪を告白し、悔い改める人々に加わって、イエスも洗礼を受けられたのです。イエスは神の御子、罪を知らない方です。なのにどうして洗礼を受けられたのでしょうか。それは、罪を知らないイエスが、罪で苦しむ人間の罪をご自分の罪として受け止め、その罪を背負われるためです。これからご自身が罪を持つ人間を救う救い主として進まれることの決意で洗礼を受けられたのです。

 

イエスが洗礼を受けられた時、天の父から喜びの声がありました。この喜びの声は、イエスを信じる私たちに対してもかけられているみ声です。