投稿者: matsuyama-alliance
2018年2月25日 礼拝説教要旨
荒れ野の誘惑
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第1章12-13節
主題聖句:それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
マルコによる福音書 第1章12節
教会の暦で「受難節」を迎えています。主イエスが荒れ野で試練に遭われたのが40日間であったことに合わせて、イースター(復活祝日)までの40日間を受難節と呼んで、このとき、主イエス・キリストの御苦しみを思い起こし、信仰を新たにするのです。
今日は、主イエスが荒れ野で送り出されて誘惑を受けた箇所です。「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した」とあります。その時まで、主イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、天の父なる神の愛を示す声がかけられ、救い主としての歩みが始まった時でした。「それから、霊がイエスを荒れ野に送り出した」のです。神の霊が、出かけていくように主イエスを送り出したのが荒れ野でした。「送り出した」とは、強いて追いやったという意味です。
私たちも、洗礼を受けて信仰の歩みを始めた後、その喜びの余韻に浸る間もなく、すぐに荒れ野に追いやられるような、信仰が試されるような経験をすることがあります。
でも覚えておきたいことは、その試練の中にも神の霊の導きがあるということです。主イエスが荒れ野に送り出されたのは、霊の導きによることであり、天使たちが荒れ野で主イエスに仕えていました。主イエスを信じて歩む私たちは荒れ野を歩まされるような苦難を味わうことがあったとしても、決して神から見捨てられていないことを覚えるべきなのです。
2018年2月18日 礼拝説教要旨
われ生くるにあらず
三好 晴夫 牧師
ガラテヤの信徒への手紙 2章19-20節
主題聖句:わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
ガラテヤの信徒への手紙第2章19,20節
本年2月で私たちの教会は宣教開始百年を迎えました。これまでには戦禍など様々な苦難がありましたが、憐れみ深い主のお導きによって導かれ、今の祝福があります。そのような多くの導きの中心は、主イエス・キリストご自身とそのみ言葉です。そして、そのみ言葉を取り次いで、私たちに伝え、そのみ言葉通りになるように祈り実践されたのが、歴代の牧師・宣教師たちでした。
残された資料を見ますと、歴代の先生方が愛と祈りを持って伝え、実践して来られた信仰が、今日の御言葉に込められた信仰です。
主イエス・キリストが十字架につけられたその時、「わたしたちの古い自分」、すなわち、生まれつきの罪深い自分も、一緒にその十字架につけられて、死んでいるということを認める信仰です。
パウロがまだキリスト教を迫害していた時、彼に復活の主イエスは現れて、イエスこそ真の救い主であると示されました。その出来事を通して、パウロはイエスを信じました。その時、自分の生まれつきの罪深い性質がキリストと共に十字架につけられて死んでいると分かり、もはや自分が生きているのではなく、復活されたキリストが自分の中に生きておられると分かったのです。復活の主イエスが、信じる私たちの中に生きておられると、歴代の先生方から、私たちに語り伝えられてきているのです。
2018年2月11日 礼拝説教要旨
嵐を静めるキリスト
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第4章35-41節
主題聖句:イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
マルコによる福音書 第4章39節
本年2月で私たちの教会は宣教開始百年を迎えます。百年前に宣教師がここ松山に住む人々に主イエスの福音を伝え始めて、信仰の群れが出来、今日に至りました。その信仰の群れの姿は舟にたとえられます。舟が海の中を進む時、様々な困難に出会うことがあるように、教会の歩みにも、様々な困難がありました。その時々の困難の中、支える力となったものは何だったのでしょうか。
今日の箇所で、主イエスと弟子たちが、群衆のいた場所を離れて、舟に乗って向こう岸に向かって進んだことが記されています。彼らの舟がしばらく進んだ時、激しい突風が起こり、舟が波をかぶり、水浸しになったのです。その中で、彼らは慌てふためき、水をかき出しますがどうにも改善しません。そんな時、主イエスは艫(とも)の方で枕して眠っておられたのです。その姿を見た弟子たちは苛立ち、主イエスを起こして不満をぶちまけました。そのとき、主イエスはどうされたでしょうか。起き上がって、風邪を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われたのです。すると、風はやみ、すっかり凪になりました。
その姿を見た彼らは、風や波を恐れた以上に、もっと畏れました。主イエスが風や波をも従わせる権威をお持ちであることに畏れたのです。彼らと共におられた主イエスは、私たちの歩みの中にも共におられるのです。