投稿者: matsuyama-alliance
2018年4月8日 礼拝説教要旨
平和があるように
三好 晴夫 牧師
ヨハネによる福音書 第20章19-23節
主題聖句:その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
ヨハネによる福音書 第20章19節
主イエス・キリストが復活された日の夕方、弟子たちにお姿を現されました。その時、語られた言葉が「あなたがたに平和があるように」でした。ヘブル語で「シャローム」と呼ばれる言葉で、今もユダヤ人の使うあいさつの言葉です。復活の主イエスはこの言葉をもって弟子たちにあいさつをされたのです。でも、主イエスがこの言葉を、繰り返し使っておられるということは、ただのあいさつの意味だけでなく、祝福する意味もあったのでしょう。
ヨハネ14章27節で、主イエスが、この世の与える平和とは違う、ご自身の平和を与えると約束しておられました。一時的なはかないものではない、神様による変わらない平和です。この平和を人が受け取れるように、復活の主イエスは,御自身の両手と脇腹を弟子たちにお見せになったのです。目の前にいる方にその十字架の傷跡があるということは、この方は間違いなく主イエスその方であることを示すものでした。しかも、主イエスを見捨てて逃げ去った彼ら弟子たちにもかかわらず、主イエスは今も生きて彼らを赦してくださったことを示すものでした。自分たちが赦されたと知って、彼らは主を見て喜んだのです。復活の主は私たちにも「平和があるように」と語り、喜びと平和を与えてくださる。
2018年4月1日 礼拝説教要旨
主は復活された
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第16章 1-8節
主題聖句:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
マルコによる福音書 第16章6節
今日はイースター、復活祝日です。主イエスが、神の全能の御力によって、死人の中から復活されたという神の御業を覚える日です。
しかし人の死ということは重い厳粛な事実です。主イエスは、十字架刑に処せられて確かに死なれ、墓に葬られました。その死の事実を多くの人も、女性の弟子たちも見ていました。墓に葬られた様も見ていました。ですから、彼女たちとしては、墓に行って主イエスのためにそのお体に香料を塗って差し上げたいと思ったのです。多く愛されたのだから愛をあらわしたいと思ってのことでした。週の初めの朝早く、彼女たちはその墓に着いて見ると、入口を塞いでいた大きな石が転がってしました。これ幸いにと、墓の中に入ったとき、そこに白い長い衣を着た若者が座っていたのでひどく恐れました。
墓の中にあるはずの主イエスのお体を見つけることができませんでした。その時、若者は言いました。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と。主イエスは復活されたのだから、ここにはおられないのです。それを聞いた女性たちには信じがたい復活の御業です。だからこそ神の方からその事実を示されて明らかになさるのです。
2018年3月25日 礼拝説教要旨
御心が行われますように
三好 晴夫 牧師
マルコによる福音書 第14章32-42節
主題聖句:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
マルコによる福音書 第14章36節
主イエスは弟子たちと過越の食事を終えて、ゲッセマネの園に行き、祈りの時を持たれました。ここに来て、主イエスはひどく恐れてもだえ始めておられるのです。地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈り始められたのです。
主イエスが今経験しておられる、苦しみはどのようなものだったのでしょうか。その時の弟子たちには、分からないことでした。当然私たちにも分からない事ですけれども、主イエスの語られた言葉や態度から推察してみたいと思います。主イエスが父なる神に「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られています。「この杯」とは、これから主イエスが飲もうとしていた杯です。それは、主イエスがではなく、私たち人間がその犯した罪の結果として受けなければならない神の裁きのことです。その裁きは人間が受けるべきものなのに、神は、人間にではなく、主イエスに身代わりに負わせようとしておられるのです。それが神の御心であったのです。御心と分かってはいても、主イエスはその裁きを目の当たりして、恐れ、取り去ってくださいと祈られたのです。霊的な闘いを経験して、ついにご自分が神の裁きを受けることを神の御心と受け止めて、主イエスは十字架に進んでいかれるのです。