投稿者: matsuyama-alliance
2018年8月5日 礼拝説教要旨
キリストはわたしたちの平和
三好 晴夫 牧師
エフェソの信徒への手紙 第2章14-22節
主題聖句: 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
エフェソの信徒への手紙 第2章14節
8月第一主日、平和主日として真の平和を共に祈りたい。第二次世界大戦が終わって73年が経過した。その戦争は世界中を巻き込み、悲惨なものだったと戦争体験者は語る。広島の原爆慰霊碑の碑文に「安らかに眠ってください。もう過ちは繰り返しませぬから。」とある。この過ちは繰り返してはいけない。73年間日本では大きな戦争はなかったが、日本に常駐するアメリカ軍は世界各地に軍隊を送って来た。日本の自衛隊も防衛の名のもと軍事訓練を続けている。日本もいつ攻撃を受けるか分からない。戦争の火種は、外側からだけでなく、人間の心の中にもある。争う心、人を憎み、虐げる思い。そういう思いがなくなり、赦し合うように真の平和を求めたい。
エフェソ書2章14節に「実にキリストはわたしたちの平和であります。」とある。キリストが真の平和を与えて下さる方である。しかし、私たち人間の現実には、平和を妨げるものがある。敵意という隔ての壁がある。その敵意となっているのが、律法である。これは悪いものではなく、人間の歩むべき正しい道を示すものなのに、お互いを裁くものになっている。人と神との平和な関係を妨げて来た。しかし、キリストがご自身の血によって敵意という壁を取り除いて下さった。神と人とが和解されて神の前に赦され、人同士が和解できるように道を開かれた。
2018年7月29日 礼拝説教要旨
ステファノの死によって
三好 晴夫 牧師
使徒言行録 第8章1-8節
主題聖句: その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。
使徒言行録第8章1節
病気や事故など予期しない苦難に遭うことがあります。その苦難の時は大変つらいですが、時間が経ったあと、その苦難を通して本来歩むべき方向へと道を正されたと受け止められるようになることがあります。
エルサレムに誕生した教会は、ステファノの殉教をきっかけに大きな迫害が起こりました。ステファノの態度に怒りを感じたユダヤ人たちがステファノだけでなく、ステファノの仲間を捕えて牢に入れ、殺そうとしたのです。
この迫害を受けたのは、主にステファノと同じギリシャ語で礼拝を守っていたキリスト者たちであったようです。12使徒たちはヘブライ語で礼拝して居たので比較的迫害が少なかったのかもしれません。使徒たちは責任を感じてエルサレムに留まっていたのでしょう。その結果、使徒以外の迫害を受けたキリスト者たちは迫害の手を逃れて、エルサレムを離れてユダヤとサマリアの地方に散らされて行きました。
しかし、このように激しい迫害を受けて他の地方に移った人々は、自分が主イエスを信じていることを隠そうとはしませんでした。どこから来たのかと聞かれたら、正直に答え、それを機会にキリストの福音を宣べ伝えたのです。それを聞いて、救われる人も起こりました。この事実を見る時、迫害は辛いですが、それによって神の導きがあるのです。
2018年7月22日 礼拝説教要旨
その方を信じる
三好 晴夫 牧師
使徒言行録 第7章51-60節
主題聖句:人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
使徒言行録第7章59節
主イエス・キリストは天に帰られるとき、地上に残す弟子たちと信じる者たちに、主イエスの現わされた愛と救いを伝えていく役目を託されました。約束の聖霊が彼らに与えられた時から、その働きが力強く始まりましたが、反対もありました。信仰者ステファノも大胆に福音を伝えたため、最高法院に連れ出され、厳しい尋問を受けました。その弁明としてステファノは、旧約時代の歴史を紐解きながら丁寧に神様の約束に従うことの祝福をまず語り、続いて、イスラエルの先祖たちが預言者たちの語る戒めに従わなかったことも語りました。そして目の前の人々に、神の遣わされるメシアを預言する預言者の言葉に聞き従わず、正しい人(イエス)を殺したことをはっきりと指摘したのです。彼がそうしたのは、彼らに悔い改めて救われてほしいと願ったからでした。
しかし、ステファノの指摘を聞いた最高法院の議員たちは、激しい怒りに駆られてステファノに歯ぎしりをしたのです。けれども、彼は、天におられる父なる神とキリストを見つめ、「人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったのです。彼の言葉を神への冒涜を思った人々は逆上し彼を外に連れ出し処刑しました。けれども、彼は処刑を受ける中、自分の命を神様にゆだね、自分を殺す者のために祈ったのです。まさに主イエスのようです。すべてをご存知の主を信じゆだねたのです
2018年7月15日 礼拝説教要旨
まことの神の家
三好 晴夫 牧師
使徒言行録 第7章44-50節
主題聖句:けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。
使徒言行録 第7章48節
教会がまことの神の家というのは、建物が立派さによってでも、また長い伝統によってでもありません。まことの神の家にふさわしい教会であるためには、礼拝する者がここにまことの神様がおられると信じて、神の言葉に基づいた礼拝をささげるのでなければならないと思います。
有力な説教者ステファノは、ユダヤ人たちから「お前は聖なる所をけなしている」と訴えられて、その問題に対して聖書に基づいて弁明しました。ステファノから見れば、ユダヤ人指導者たちが、エルサレムの神殿を誇っているけれども、ちゃんと正しく神を礼拝しているのか疑問であったのです。
それで、彼は、旧約時代において神殿がなかった時代があったこと、その時に幕屋があったことを明らかにします。幕屋とは、荒れ野で神を礼拝するための組み立て式の礼拝所でした。しかも神からモーセに設計を示され指示通りに造られたものです。その幕屋で人々は神に近づき、神とお会いして、神の言葉である神の戒めの刻まれた石の板を納められた神の箱の上で礼拝していました。礼拝の仕方は幕屋の時代から神殿になっても変わっていません。だからステファノは言うのです。神殿という建物は人の手で造られたものですから、いと高き神がそこにお住みにはなりません。神殿は、神の民の礼拝のために神の与えられた場所に過ぎないのです。大事なことは神の言葉に従って礼拝することなのです。