投稿者: matsuyama-alliance
2019年2月10日 礼拝背説教要旨
安息日の主
三好 晴夫 牧師
ルカによる福音書 第6章1-11節
主題聖句:そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」。
ルカによる福音書 第6章5節
今日キリスト教会は、日曜日を安息日として、仕事を離れて教会に集い礼拝をささげています。それは、日曜日の朝、主イエスが死人の中からよみがえられたからです。
しかし、安息日は元々旧約聖書の時代に神がイスラエルの民に守るように定められたもので、土曜日でした。その戒めは、六日の間働いて、七日目は主の安息日であるからいかなる仕事もしてはならないというものでした。それゆえ、イスラエルの民はそれを守り続けていました。しかも、きちんとした形で守ろうとするあまり、更に細かな規定を加えて行きました。そのために、色んな問題が起きていました。
その一つが、今日の聖書箇所にあることです。ある安息日に主イエスと弟子たちが麦畑を歩いているとき、弟子たちが麦畑の穂を摘んで手でもみ出して食べたのです。それを見たユダヤ宗教指導者は問題にしたのです。彼らの言い分は、麦の穂を摘み、それをもみ出すことは労働であるのに、あなたたちは安息日に仕事をしている、けしからんと主イエスに向けて非難したのです。その訴えに対して、主イエスは答えられました。旧約のダビデは王ということで特別に律法を超えて特別のパンを食べることが許された。そのように人の子イエスは弟子たちに安息日に麦の穂を摘むことを許したのだ。人の子は安息の主であると宣言された。
2019年2月3日 礼拝説教要旨
新しいぶどう酒は新しい革袋に
三好 晴夫 牧師
ルカによる福音書 第5章33-39節
主題聖句:新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。
ルカによる福音書 第5章38節
周囲の人たちから見れば、キリスト者の信仰生活には、祈りが足りない、慎み深さがないと思われているところがあるのかもしれません。
主イエスが、罪人と言われている人たちを招いて弟子とされ、彼らと一緒に食事をしているときに、ユダヤ教の指導者たちから厳しい苦言がありました。あなたがたは断食や祈りをしない、食べたりばかりだと。
主イエスはその非難に対して、花婿が一緒にいる婚礼の客はその時にはその祝いのゆえに断食をしない。そのように花婿であるイエスと一緒にいる弟子たちはその喜びゆえに断食をしない。でも、花婿が奪い去られると悲しみのあまり断食することになる。
そう答えられたあと、さらにたとえを持って「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる」と語られました。
このたとえの古い革袋は古いユダヤ教の生活、新しいぶどう酒は主イエスの新しい教え、新しい命の喜びであり、新しい革袋は主イエスの教えに基づく生活を示しています。もし人がユダヤ教の古い伝統の生活に固執しその中に主イエスの教えを入れると、入れ物も中身も両方が駄目になる。新しいぶどう酒である主イエスの福音の喜びは命があふれているので、主イエスをそのまま信じて受け入れるべきなのです。
2019年1月27日 礼拝説教要旨
心からの献げもの
三好 晴夫 牧師
ルカによる福音書 第21章1-9節
主題聖句:言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
ルカによる福音書 第21章3節
私たちが日曜日の朝、教会に集い、礼拝をささげていますが、その基本は、神様からの大きな恵みを覚えて、私たちの全生活を神様にささげることです。ローマ12章1節をご覧ください。
主イエスの地上を歩まれた時代の礼拝は、エルサレムの神殿で祭司によって動物のいけにえをささげて感謝を表し、罪の赦しを願うものでした。神殿礼拝は形式的になっていて、問題点も多かったので、その神殿も神殿での礼拝もいつか終わる時が来ることを主イエスははっきりと語られました。そういう中で、すばらしい目を見張るような礼拝をする人に主イエスは目を留められました。それが今日の箇所のある貧しいやもめの献金の姿です。
主イエスは、金持ちたちが神殿の賽銭箱に献金を入れる様子を見ておられました。その列の中に、あるやもめがレプトン銅貨2枚を入れたのです。その金額は金持ちの献金に比べるならわずかなものでした。しかし、主イエスはそれをご覧になって、「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた」と言われたのです。それは、このやもめが乏しい中から持っている生活費すべてささげたからです。彼女は自分のための何かを残さず、神様が自分を必ず守ってくださると信じて自分の生活すべてを神様にささげたのです。この姿勢は私たちにインパクトを与えます。
2019年1月20日 礼拝説教要旨
故郷では歓迎されない預言者
三好 晴夫 牧師
ルカによる福音書 第4章16-30節
主題聖句:皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った「この人はヨセフの子ではないか。」
ルカ福音書 第4章22節
主イエスはご自身のお育ちになったナザレに来て、安息日にユダヤ人の会堂に入り、そこで聖書を朗読されました。イザヤ書61章の言葉でした。そこを読まれた後、人々に向かって「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。
この話を聞いた人々は皆、イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いたのです。このお方の語る言葉が人々の心に沁み入る言葉であったからです。「この人はヨセフの子ではないか」。あの大工ヨセフの子がこんな立派なことが言えたものだと感心したのです。それからやがてわれわれはヨセフの子を、イエスの他にもその兄弟たちをも知っている。この子たちはここナザレに住んでいるではないかと主イエスを軽蔑することになったのです。イエスを神から遣わされた者と信じられなくなったのです。
このようなつまずきは今日の私たちにも当てはまるのではないでしょうか。イエスを私たちは神の御子と信じ、この方の救いを信じていますが、そのとき、心の中でこのイエスも一人の人間ではないか、イエスを敬う程のことはないと思ってしまいやすいのです。しかし、この方は確かにヨセフの子として生まれ育った人ですが、神から遣わされた救い主です。私たちと同じ人間として苦しみ、私たちに仕えられたのです。