2019年4月28日 ミス・メーベル・フランシス師  内住のキリスト「自我の磔殺」(1969年)

  内住のキリスト「自我の磔殺」
             ミス・メーベル・フランシス

   (1969年、89歳で来日の時、全四国クリスチャン修養会での説教から)

 アメリカにいる時、私は本当にキリストと共に歩んでいたのに、その苦しみの中にイライラし出した。勿論、習慣が難しかった。今まで座ったことのなかった私が座ることが難しかった。行儀作法も厳しかった。又人間が多かったこと。何処へ行っても人間がおる。人間が多い事・・・。

 

それで私は失望してしまった。「もう私はだめだ。折角来たけれども私に何ができますか」「イエス様、私はあなたに従って参りました。あなたのおっしゃる通りにしました。けれども何が出来ますか。私のような小さい者は、この大勢の中に、恐れて近寄ることもできません。もう駄目です」。私はその時箱根の方に行っていたのですが、山に登って声をあげて泣いて、泣いてイエス様に申し上げたのでした。

 

その時イエス様が、私の心に「お前が出来るからお前を日本に召したんでないです。わたしがお前にやらせること、わたしがお前の中にわたしを住まわせて、私がお前を通して事をなすことを私は願っておる」と言われました。「イエス様、教えてください。私はもう、本当に失望しました。苦しいです」「お前は今まで、聖霊を受けて、心を潔められて、非常に喜んでおりましたが、もう一つの事がなければ私はお前を用いる事が出来ません。お前が死ななければ・・・。」

 

そのイエス様の言葉を聞いて私は初めて、私にこの「我(われ)」「我(が)」というもの、これがあるという事が分かった。そしてイエス様は「その我は、きよまるでなしに死ななければならない・・・」と言われた。

2019年4月21日 礼拝説教要旨

 あの方は復活なさったのだ

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第24章1-12節

 

 

  主題聖句:あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 

         ルカによる福音書 第24章6節

        

復活の信仰というものが、初めから、弟子たちの中にあったわけではありません。むしろ、彼ら弟子たちは主イエスが捕えられた時、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。主イエスの十字架の死の事実に気力を失っていました。婦人たちは、主イエスの十字架を遠くから見つめ、葬られたお墓もじっと見ていました。でも婦人の弟子たちは、今一度主イエスのお体に香油を塗って葬り直したい思いを持って、週の初めの日(日曜日)の早朝、主イエスのお墓に向かいました。

 

その墓で見たものは、取りのけてあったその墓の中が空っぽであったという事実です。途方に暮れてしまった彼女たちに、希望の光が差し込みました。輝く衣を着た二人の人がそばに現れて「なぜ生きておられる方を死人の中に捜すのか」と問いかけました。彼女たちがイエスのお体を捜すその思いを見抜いた言葉でした。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」「ここ」死者の世界にはあなたの探すイエスはおられません。復活なさって、生きておられるのですと告げたのです。更に続けます。主イエスが以前話されていた受難の予告を思い出しなさいというのです。このように言われて彼女たちは主イエスの話を思い出し、少しずつもしかしたら主イエスが復活されたのかもしれないと受け止め始めていきました。このようにして復活が明らかになったのです。

2019年4月14日 礼拝説教要旨

十字架の救い

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第23章

 

主題聖句: するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 

         ルカによる福音書 第23章26-43節

        

この言葉は、主イエスが十字架に付いておられる時、一緒に十字架に付けられた犯罪人の一人に語られた救いの言葉です。

 

このとき、主イエスの十字架の両隣には、二人の犯罪人が十字架に付けられていました。一方の犯罪人はイエスをののしり、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救え」とわめき叫んでいましたが、もう一方の犯罪人は、イエスが自分を救おうとされず、自分を殺そうとする人たちのためにその罪をお赦しくださいと祈られる姿を見て、深く心動かされたようです。自分はこれまで多くの罪を犯したのだからこのような刑罰を受けても当然。しかし、このお方は何も悪いことをしていないと、彼はののしる犯罪人をたしなめました。その上で、彼は主イエスにお願いを始めました。「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」とお願いしたのです。これは心からへりくだって救いを求める祈りです。

 

すると、すぐに主イエスから、思いがけない言葉が返ってきました。それが上記の言葉です。「楽園」。パラダイス。神がおられ、信じる者もいるところ。そこにあなたは今日わたしとともにいますと約束されたのです。彼はこれまで自分勝手に生きていた者でしたが、今主イエスに救いを求めたとき、主は共にいてくださる。私たちも救いを求めよう。

2019年4月7日 礼拝説教要旨

 ぶどう園の主人と農夫

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第20章9-19節

 

 主題聖句:イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 

          ルカによる福音書 第20章1節

        

主イエスがエルサレムに入られ、十字架に付けられる三日前、神殿の境内で民衆に教えておられました。この時、たとえを話されたのですが、このたとえ話は、これまでのものとは違い、お話の登場人物や道具立ての一つ一つが、誰かをなぞらえている、何かをたとえているという、寓意的なたとえ話でした。ですから、聞いているユダヤ教の指導者たちはこの話は自分たちに当て付けて話していると気づいたのです(19節)。

 

このたとえ話は、ある人がぶどう園を造り、これを農夫たちに貸して長い旅に出たことから始まります。この意味は、「ぶどう園の主人」であるところの神は、「ぶどう園」であるところの神の造られた園、イスラエルを、「農夫」であるところのイスラエルの指導者たちに託して任されたということです。そして収穫の時になったので、主人である神は僕であるところの預言者たちを遣わして、イスラエルの人たちに神に立ち返るように伝えたのですが、農夫たちであるところの指導者たちは預言者たちを何度も袋叩きにして追い返しました。けれども、ぶどう園の主人である神は農夫である指導者たちの反発を受けてもあきらめないで「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」となおも彼らに期待して息子であるところの神の御子イエス・キリストを送ったのです。それは立ち返ることを信じる神の愛です。