2020年2月16日 礼拝説教要旨

 良くなりたいか

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第5章1-18節

 

 

主題聖句: イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気

であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。

                  ヨハネによる福音書 第5章6節

 

エルサレムに「ベトザタ」と呼ばれる池があり、その池の水が動く時、真っ先に水に入った人は、どんな病気にかかっていても癒されると信じられていました。それで、病気を抱えた人たちが皆、その池の回廊に横たわって、水が動くのを今かと待っていたのでした。そこに38年も病気で苦しんでいる人もいました。そこに主イエスは来られて、その人をご覧になり、その人が長い間病気であるのを知って、声をかけられたのです。「良くなりたいか」。この言い方は、分かり切ったことを聞く問いかけのように思えます。でも、意味深いもののように思えます。直訳をすると、「あなたは病気が治るようになることを願っていますか」となります。彼は自分が長い間病気で苦しみ、この池に来ていてもなかなか治るチャンスが来ないまま、ずっとここにいました。この問いかけは、彼の心にあった求めをもう一度呼び起こすことになりました。

 

しかし、彼は、「主よ、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」と言い訳を言いました。でも、自分の本当の求めを呼び覚まされたこの病人に、主イエスは、あなたが良くなりたいと願うのなら、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と励まされたのです。すると、この人は、主イエスのみ言葉に込められた御力に押し出され、主イエスの言葉に従ったとき、彼はしっかりと歩き出すことができたのです。

2020年2月9日 礼拝説教要旨

 真理は自由にする

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第8章21-36節

 

 

主題聖句: あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

         ヨハネによる福音書 第8章32節

 

今日、私たちは憲法によって基本的人権など様々な自由が保障されていて、法律の範囲内で自分の思いのままに行動することが許されています。自由を保障する国で自由な生活できることはありがたいです。でも、内的にも自由はあるかというと、様々な束縛や窮屈さがあります。世間体に、うわさに、しきたりに、因習や慣習に結構縛られています。欲望や罪の奴隷になっていないでしょうか。

 

今日の御言葉に、この奴隷とか自由のことが取り上げられています。このことは、私たちが人間として生きていく上で大切な問題です。

 

主イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と言われました。主イエスの本当の弟子となるためには、主イエスの語られた言葉にとどまることが大切だというのです。主イエスの言葉にとどまることは、主イエスの言葉に聞き続け、主イエスの言葉に立って生きることです。主イエスと親しく交わり、主イエスが自分の内にあるように主の言葉を心にとどめることです。そのようにしていくならば、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」というのです。真理とは何でしょうか。本当のことです。それは主イエス・キリストのご人格と密接に関係のあるものです。主イエスこそ真理です。真理であるイエスは、私たちを罪から解放し、本当の自由に生きるようにしてくださるのです。

2020年2月2日 礼拝説教要旨

 まことの神殿

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第2章13-20節

 

 

主題聖句:イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」     

    ヨハネによる福音書 第2章19節

 

ユダヤ人の過越祭が近づき、主イエスが都エルサレムに上られた時のことです。祭りの時、エルサレム神殿に各地からユダヤ人が大勢集まり、境内では献げ物のための生き物等が売られたり、献金のための硬貨に両替をする商売人が商売をしたりして、礼拝者の便宜を図っていました。その状況をご覧になられた主イエスは、突然、縄で鞭を作って、ささげ物用の生き物たちを追い出し、両替のお金をまき散らし両替の台を倒したりしました。どうして主イエスはこんなことをされたのでしょうか。その心には、当時の礼拝のあり方に対して、人々の礼拝する態度に大きな問題があると感じられ、熱い思いでそのようになさったのです。

 

これを見たユダヤ人指導者たちは、どういう権限があって、こんなことをするのか、しるしを見せろと詰め寄りました。その問いに対して答えられたのが、上記の御言葉です。「この神殿を壊してみよ」。当時の神殿の内部に問題があり、そのための解決が必要と感じておられたのです。「三日で建て直す」とはどういうことか、その意味は誰も分からなかったのですが、主イエスが復活されたあと、弟子たちに分かったことです。それは、後に、主イエスが人々に捨てられ、十字架に付けられてしまいます。それは人間の罪を背負って十字架で贖いを成し遂げられることでした。そして三日目に死人の中から復活されて、主イエス・キリストの復活の体を通して、私たちを神に結び合わせて下さったのです。

 

2020年1月26日 礼拝説教要旨

 最初のしるし

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第2章1-11節

 

 主題聖句:ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。     

ヨハネによる福音書 第2章3節

 

ガリラヤのカナで婚礼があり、その婚礼に主イエスも招かれて出席していた時のことです。当時の婚宴において、ぶどう酒は不可欠な飲み物でした。ですから、途切れないように十分に用意しておいたはずです。それなのに、めでたい祝宴が盛り上がっている最中、突然ぶどう酒がなくなりかけるという非常事態が起きてしまいました。

 

このままなら、盛り上がっている祝宴に穴をあけてしまう。楽しい席が白けてしまうかもしれません。台所にいる人たちは、残り少なくなったぶどう酒をどう補充したらよいか、方法も見つけられず、不安の中にあったのです。私たちの人生にも、「ぶどう酒がなくなる」というような困ってしまうことが起こることがあります。

 

そういう時、イエスの母は非常事態に直面し苦しむ親戚の新婚の二人、その家族を思い、何とかできないか必死に考えたのです。その時に、ここにイエスがいると気づいたのです。そしてこの窮状をイエスに伝えたのです。けれども、イエスの答えは、何かよろよそしい印象を与えるものでした。イエスのお考えがあり、自分に託された使命の時がまだ来ていないと言うのでした。しかし、その上で、イエスは人間の一つ一つの欠乏、必要に心を留め、その苦しみ困難を助けてくださるのです。主イエスは、僕たちに指示を与え、僕たちの従順な行動を用いて、喜びがなくなりそうであったところを、喜びの場に変えてくださいました。