投稿者: matsuyama-alliance
2020年5月17日 礼拝説教要旨
キリストの勝利
三好 晴夫 牧師
ヨハネによる福音書 第16章 25-33節
主題聖句:あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わた
しは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書第16章33節
今、私たちが生きている現実社会において、様々な悩みや苦しみがあります。ほんの些細な悩みであっても、私たちは悩み苦しみます。また、自分としては、正しい道を歩んでいても、信仰のゆえに苦しむという苦難を経験することもあります。
そういう悩みや苦難の中にある私たちに与えられる慰めは、「あなたはひとりではない。父が、共にいてくださる」という支えです。主イエスが苦難の中にあった時ですら、ひとりで悩まれたのではなく、父なる神が共におられたのです。事実、そうであったのです。
その主イエスが、弟子たちに与えられた慰めの言葉が、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」という言葉です。罪と暗闇の世が、主イエスを苦しめ、十字架で滅ぼしたかと思われましたが、神がこのイエスを死から復活させて勝利されました。この主イエスの勝利によって、弟子たちは勇気を頂くことができたのです。
この世では苦難があります。しかし、そのような中にも、主が私たちと共におられます。主の平安の中に守ってくださいます。このお方は、世に既に打ち勝たれたお方です。このお方の勝利を私たちにも与えてくださいます。このお方が、支えてくださいますから、一人ぼっちではない。このお方の勝利を信じて、守ってくださると信じて歩みましょう。
2020年5月10日 礼拝説教要旨
世があなたがたを憎むなら
三好 晴夫 牧師
ヨハネによる福音書 第15章18-27節
主題聖句:「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
ヨハネによる福音書第15章18節
私たちが主イエスを信じ、このお方の救いにおすがりして生きていくことは、まことに幸いなことです。しかし、「世」、すなわちこの世に生きる人々の中においては必ずしも、私たちキリストを信じる者は歓迎されるとは限らないのです。むしろ信仰のゆえに憎まれたり迫害を受けたりすることがあるのです。
それはどうしてなのでしょうか。そのことについて、主イエスが十字架におかかりになる前に、残していく弟子たちに教えておられるのが今日の聖書箇所です。世が主の弟子たちを憎むのは、主イエスがまず先に世の人々から憎まれたからなのです。主イエスは暗闇を照らす真の光としてこの世に来られ、神の御心に従ってきよく歩まれ、神の愛を表わされ、人々を愛し、正しいことをなさいました。しかし人々はその主イエスの愛の行いをまぶしいと感じ、その光である方を憎み、主イエスを十字架につけて殺しました。ヨハネ3章19節に「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。」とあるとおりです。
それゆえ、主イエスの弟子たちや今日のキリストを信じる者が世から憎まれることがあることを覚えるべきなのです。
主イエスは御自分が世から憎まれ殺されそうになった時、憎む者を愛し赦しを祈られました。この主イエスの愛と犠牲の故に私たちは救われたのです。主イエスは聖霊によって私たちと共にいてくださいます。
2020年5月3日 礼拝説教要旨
わたしを愛するか
三好 晴夫 牧師
ヨハネによる福音書 第21章15-25節
主題聖句:イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と・・・
ヨハネによる福音書 第21章15節
私たちは躓いたり失敗したりします。そんな自分の弱さに気づき落ち込みます。そんな私たちを神様は見捨てられず、救った者を最後まで支えてくださるのです。その実例が今日の箇所に示されています。
ガリラヤの湖畔で主イエスと弟子たちが朝食を済ませた後、主イエスはペトロに3度同じ質問をされました。「わたしを愛しているか」と。
主イエスを愛するとはどういうことなのでしょうか。主イエスがペトロを、私たちを救うために十字架にかかり命を捨てる程に愛してくださいました。その愛を忘れないで、感謝することでしょう。それ以上に、主イエスの大きな愛に対して誠実にお応えすることでしょう。
なぜ主イエスは3度も繰り返しこの質問をされたのでしょうか。主イエスはこれから天に帰られます。後に残す弟子たちに主イエスの代わりに救いを伝える仕事を続けさせようとしていました。その役目にペトロを選ばれたのです。主イエスは罪深い人間を救うためにご自分の命を捨ててくださいました。でもそのことが分からずペトロは3度もイエスを否定し、イエスを見捨ててしまいました。主イエスはペトロに3度、わたしを愛するかと問われて、彼の本当の姿に気づかせ、その彼をなおも主イエスが受け入れておられることを知らせ、主に従うよう導かれた。