2020年8月2日 礼拝説教要旨

 神に何を願い求めるべきか  

三好 晴夫 牧師

ヤコブの手紙 第4章1-3節

主題聖句:何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなた

がた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。

                                   ヤコブの手紙 第4章1節

 

教会は、神の恵みにより主イエス・キリストの犠牲によって神との平和を頂いた者として、互いに愛し合う信仰の共同体となっているはずです。しかし、現実には、神よりの平和がないような有様ではないか、と著者ヤコブは教会に向かって指摘しています。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか」と問いかけています。

 

どうでしょうか。人と人とが争い合ったり、もめ事を起こしたり、人を攻撃したり、ねたんだりとぶつかり合い、時にはそれが大きくなってしまう現実が、世の中一般だけでなく、今日の信仰の共同体である教会においても起こっているのではないか。どこのだれかではなく、私たちの教会の中、さらには私たち自身の中にもこの争いが起こっているのではないか。このように争う原因は何か。「あなたがた自身の内部で争い合う欲望がその原因ではないか」と指摘しています。人間の欲望が争いの原因であるというのです。この「欲望」と訳される言葉は、一般に「快楽」「楽しみ」の意味です。その「快楽」「楽しい」を願う思いが心の内で欲望に変わり、その欲望に振り回され、周囲の人をも巻き込んで、皆を欲望に振り回して争い合うことが、教会においても起こることがあるのです。

 

この危険から私たちが身を守るためにどうすべきでしょうか。自分がそのような欲望に振り回されやすいものと認め、神に願い求めることです。

 

2020年7月26日 礼拝説教要旨

 罪とその結果 

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第1章24-32節

主題聖句:そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。

ローマの信徒への手紙1章24節

 

現在、ローマの信徒への手紙から、神の救いを自分のものとして受けるために、まず自分がその救いを頂けなければならないほど、この自分には深刻な問題(罪)があるのだということを学び始めています。

 

1章18節で、私たち人間の行った不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されるとあります。神は人間の罪に対して正しい理由で裁かれるというのです。なぜ裁かれるかというと、私たち人間は神を知っていながら、神をあがめず感謝せず思い上がって高慢になって、神の栄光を他のものに取り替えてしまう罪を犯しているからです。その私たちに対して神は裁かれるのです。

 

では、神はどんな裁きを下されるのでしょうか。24節に「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」とあります。26節に「彼らを恥ずべき情欲にまかせられました」とあり、28節では「彼らを無価値な思いに渡され」とあります。「まかせられる」とは、自由にされる、なすがままにされる、放っておかれると言う意味です。自由にされ良いようですが、自由であることで、人間は心の底にある欲望のままに引きずられてわがまま勝手なことをしてしまいます。これは神の裁きです。このままなら大変です。こんな私たちを忍耐深く愛される神の救いが必要です。

2020年7月19日 日曜礼拝(音声)

 人間の罪の現実

三好 晴夫 牧師

   ローマの信徒への手紙 

      

不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。

ローマの信徒への手紙  第1章18節

 

 

いよいよこれから神の現された救いについて学びます。その救いが分かるためには、神が私たち人間をどんな状態にあるところから救おうとなさったのかを知らなければならないと、パウロは言います。私たち人間がどんなひどい状態にあるのかを知り、そんなところから神に救って頂いたのだと伝えなければというのです。それは、光の明るさを知るために、今ここで夜の暗さを学ぶということです。

 

実は、私たちは神を知るまでは、暗闇の中でどこにいるのか分からず迷子の状態であったのです。ですから、今、自分がそういう状態であることを教えられなければなりません。その後、主イエス・キリストを信じ救われることがどんなに大きな喜びなのか分かるようになるのです。

 

パウロは、私たち人間が光のない暗さの中にあるであることについて、上記の言葉を記します。「神は天から怒りを現されます」とは、神は正義の神ですから、人間の不信心と不義に対して正しく裁かれるということです。実際のところ、私たちは、真理である神を拒み、隣人を愛することをしないものでした。それ故に、神は正しく裁かれてもおかしくない現実の中にあります。神を知っても神をあがめず感謝もしていない私たちです。しかし、自分が負わなければならない私たちの罪に対して、神はその怒りを、私たちの上にではなく、御子の上に現されたのです。

 

2020年7月12日 礼拝説教要旨

 信仰を通して  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第1章16-17節

 

主題聖句:福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。 

 

ローマの信徒への手紙 第1章17節

 

16節に「福音は・・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」とありました。救いをもたらす神の力とはどんな力なのでしょうか。

 

「福音」は、人となられ人と共に歩まれ、私たちのために救いを成し遂げられたイエス・キリストです。この方の成し遂げられた救いの御業を通して神は私たちに対する愛を示されました。福音には愛が溢れています。「福音」は救いの知らせです。救いの知らせが私たちに語りかけられて、その知らせを自分への愛であると信じるとき、私たちに救いがもたらされます。それほどに福音には神の愛、恵みが溢れています。

 

そのように福音は私たちに救いをもたらす神の力なのです。ならば、そのように救いをもたらす福音にはどんな力、どんな源があるのでしょうか。17節「福音には、神の義が啓示されています」。神の義こそが私たちに救いをもたらすというのです。神の義というと、旧約においてイスラエルの民には神の戒めを守ることによって神の前に正しくあろうとしました。しかし、守ることができず、神に逆らい、神に裁かれて、神の正しさが示されました。しかし、神はイエス・キリストを通して神の義を示されたのです。イエス・キリストを十字架の上で私たちの代わりに裁かれることに神の義を表わされました。この神の義を私たちが受け取る方法は何か。自分の罪を認め、神の憐れみを信頼することです。