2012年2月19日 礼拝説教要旨

主題聖句 「何とかして、捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」 

        フィリピ 3章10節

説教主題「前のものにむかって」

 パウロはキリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかって、何とかして死者の中からの復活に達したいと申します。しかし、完全な者になっているとも言えないと付け加えます。

ここで言う「完全な者」とは〝悟りを開いて既に特別な境地に達した人〟とか〝解脱者〟を意味しているのではありません。〝成熟した大人〟のことです。つまりまだ自分は十分に成長しきっていないと言っているのです。

 大人にまで成熟していない子供も、人としての資質は備わっています。ただ、これからの成長の可能性を秘めており、また成長を期待もされているのです。完全の水準にまで到達していないのでダメだというのではありません。キリスト様に救われたと言うちゃんとした基礎は既に与えられています。例えばキリストを知るということを考えてみます。パウロといえどもキリストを知る知り方は十分とはいえないでしょう。しかし、知っているのは嘘ではないし、いい加減な気持ちでもないことも確かなのです。もっとも時に気持ちが揺らぐことも、がっくりくることもあるでしょう。しかし、おしなべてキリストを信じて生きてゆくのは間違いありません。「キリストを信じているから、もっとキリストを知りたい。」と望むことは当然といえば当然の願いなのです。与えられた救いや恵みをもっと成熟したより良いものにしたいと願うのは、実はパウロがイエス・キリストに捕らえられているからなのです。

2012年2月12日 礼拝説教要旨

主題聖句 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって…何とかして死者の中からの復活に達したい」

フィリピ 3章10節

説教主題「キリストの義」

  パウロはキリストを信じる、あるいはキリストを愛するという事を「キリストを知る」という言い方をします。キリストだけではありません。「その復活の力」を知るのです。力とはダイナマイトのもとになった言葉で「爆発する力」を表します。土砂崩れが起こり、トンネルの出入り口が落石で塞がれたとします。十分に安全性を確認し、ダイナマイトを用いられることがあります。救出に一刻を争う場合に瓦礫撤去に大きな威力を発揮するでしょう。主イエスのご復活にはそのようなエネルギーが秘められているのです。

  復活の力は第一に死を爆破します。さらに死を打ち破ることによって罪を打ち滅ぼします。人間をがんじがらめに縛っていた罪の力は並大抵のものではありません。「復活の力を知る」とはキリストが私たちを捉えている死と罪を打ち破られるとわかることなのです。

  私たちは相変わらず罪を犯します。それでも罪が支配者ではなく、罪に代わってイエス・キリストが私たちの主人となってくださるのです。

  すべてを清算して全く新しい人間になりたいと思うことはないですか。しかし、自分に与えられた能力・環境・性格は大体決まっており、今の自分からは抜け出しようがありません。だから新しくなりたいと思うし、また同時にそれは難しいとも感じてしまうのです。職業を変え、家族との関係を断ったところで新しくなりません。イエス・キリストの復活の力のような全てを爆破して打ち破る力が必要なのです。

2012年2月5日 礼拝説教要旨

主題聖句 「熱心の点では教会の迫害者…しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。] 

                       

フィリピの信徒への手紙 第3章6節7節

 

説教主題「神の憐れみの手本」

  パウロは自分の律法に対する熱心さを表す物差しとして「教会を迫害する者である」と申しました。それが誇りだというのです。このような言い方に対しては抵抗を感じます。いじめるのは良くありません。ましてやそれを自慢するなどひどい話です。しかし、福音を信じるキリスト者たちをユダヤ人の指導者や律法を信奉する人々は自分たちの宗教を破壊するけしからん者たちだと考えていました。何とかそのような悪影響を食い止めなければなりません。律法に熱心であり、自らの宗教を守る真面目さの現れがキリスト者たちを潰すことだと考えていたのです。

   そのパウロはキリ スト者たちを迫害していたさなか、180度変わります。信じる者たちを懲らしめるとは結局、大本におられる主イエス・キリストに歯向かうことです。その攻撃をしていた主イエスにお目に掛かったのです。このところの経緯について使徒言行録には3度も記述してあります。(9章、22章、26章)パウロの個人的な経験としてだけでなく、キリストの教会にとっても余程大きな出来事であったに違いありません。

   パウロはこの主との出会いを「主キリスト・イエスを知る」と表現します。滅ぼそうとするパウロを〝返り討ち〟にするどころか、限りない憐れみをもって近づき、赦して救ってくださったのです。そのような「愛の主イエス・キリストが分かった」と言って心から喜んだのです。

2012年1月29日 連載(きょうどう No.5)

ルカによる福音書第15章「失われた息子(二人の息子)の譬え」についての黙想    (連載 第9回) 前回は昨年10月30日

 

前回の主旨:弟は「父から離れれば、自由になる」と思った。それは幻想であった。飢餓と渇望とが広がる。

今回 :弟はわれに返る。「悔い改め」

   「わたしの父には多くの雇い人がいる」 困窮の果てに弟息子は、身勝手の故に自分が捨てた父を思い出す。この父の姿が自分の帰ってゆく方向を指し示す。目を覚まし「我に返った」弟は〝息子である権利と資格〟を当然のこととして主張しなくなった。その権利を回復してくださいとは言わず「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました(19節)と言おう!」弟は心の中で決意する。「父よ、赦してください。私は失われた息子です。」―いや、もはや息子とも呼んでもらう資格もない。雇い人の一人にしていただけるのなら、望外の喜びだ。しかし、その許可も主人の恩恵一つに掛かっている。― 父の家の息子として生きることは不自由だと思い込んでいた。その人間が、今まことに謙虚になり、雇い人として父の家で自由を得ようと願うようになった。父の家が窮屈なところではなく、自由な居場所と思えた。住まわせてもらえるのであれば、雇い人の一人でも、もちろん構わない。だが、自分勝手な振る舞いを考えるとその願いすらも厚かましいようにも思える。このような慎ましい望みも、赦しを与える父の胸一つに掛かっているのである。(続く)