2012年10月21日 礼拝説教要旨

「主イエスの洗礼 」

マタイによる福音書 第3章13-17節

政所邦明牧師

主題聖句:「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった」
    マタイによる福音書 第3章16節

バプテスマのヨハネがユダヤ地方の荒れ野に現れ、「神のもとに立ち返りなさい。」と悔い改めを宣べ伝えます。さらにヨルダン川沿いに行き、水で洗礼を授けておりました。しかし、ヨハネは自分の奉仕の限界を知っています。「自分は水で洗礼を授けるけれども、これはあくまで準備にすぎない。わたしの後から主イエス・キリストがおいでになる。この御方は聖霊によって洗礼を授けてくださる。水による洗礼は聖霊による洗礼を前もって形に表すだけだ。しかし、聖霊による満たしと支配とが起こらなければ、単なる形だけのことになってしまう。」とヨハネは考えていたのではないでしょうか。

水で洗礼を授けているヨハネのところに群集に埋もれるようにして イエス・キリストが来られました。ヨハネから水で洗礼を受けるためです。ヨハネは戸惑います。自分はこの方の履物を脱がせる値打ちもないし、自分の方がこの方から洗礼を受けたいくらいだと思っていたからです。
主イエスが洗礼をお受けになった後、ヨハネが目の当たりにしたのは天が主イエスに向かって開かれ、聖霊が鳩のようにこの方に降られる出来事でした。水で洗礼を受けた人に、さらに主イエスが聖霊によって洗礼をお授けになることをヨハネは知っていたでしょう。しかし、イエス御自身が聖霊に満たされるのを目撃させられるとまでは思わなかったはずです。ヨハネは自分の語ったことにますます確信を持ったに違いありません。聖霊に満たされたお方が、聖霊を授けてくださることによって、自分の授ける水による洗礼が、神の御前に、実態の伴う真実な救いになるのを確信したのです。

2012年10月14日 礼拝説教要旨

「ヨハネと主イエス」

 

ルカによる福音書 第3章15-20節

 

政所邦明牧師

 

主題聖句:「ヨハネは…罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」         

ルカによる福音書第3章3節

 

バプテスマのヨハネがヨルダン川沿いの地方で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた頃、民衆はメシア(救い主)を待ち望んでおりました。そしてこのヨハネが救い主かもしれないと心の中で思っておりました。(同福音書3章15節以下)そのこころを見通すかのように「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」とヨハネは申します。このあと、主イエスはヨハネのもとに来て、民衆に紛れ、その中に埋もれるようにして洗礼をお受けになります。

ヨハネは自分と“優れた方”の違いを述べます。―自分は水で、その方は聖霊と火で洗礼を授ける―この点が違います。水による洗礼はこの御方の聖霊と火による洗礼によって、完成を見ると言いたいのでしょう。

「罪の赦しを得させる悔い改め」という言葉はルカによる福音書の終わりの方でもう一度出てきます。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ第24章47節)準備のための「悔い改めの洗礼」ではなく、「悔い改め」そのものが起こります。それではその「悔い改め」はどのようにして起こるのでしょうか。苦しみを受け、3日目に死者の中から復活するメシアの名によるのです。(24:26)全存在が神の方に向き、完全に神に支配されて生き始めるのが“悔い改め”です。その実現のために神の子の十字架と復活という大きな御業があったことを改めて思わされます。聖霊と火による洗礼の実態は主イエス・キリストの救いの業です。神のお働きが人に真実の悔い改めを促し、造りだすのです。

2012年10月7日 礼拝説教要旨

手ずから書いた手紙

政所邦明牧師

 

フィリピの信徒への手紙 第4章21-22節 

主題聖句:「主イエス・キリストの恵が、あなたがたの霊と共にあるように。」         

フィリピの信徒への手紙 第4章22節 

        

 パウロはフィリピの信徒への手紙を書き終えるに当たり、まことに要領よく、簡潔な挨拶と祝福の祈りで締めくくります。一説ではパウロは目の病気を患っていたと言われます。これまでの件(くだり)は身の回りの世話をしてくれる誰かに口述筆記をして貰ったのかもしれません。英文タイプが何十年も前から普及していた欧米でも、手紙の最後は自筆でサインします。パウロも最後は自筆で書いたのではないでしょうか。

外交辞令に陥りやすい挨拶の部分にもパウロの信仰が現れます。私たちはよく「あなたのために祈っています」と書きます。そう認め(したため)ながら、相手のためにどれほど祈ったであろうかと反省させられるのです。…「本当に祈っている人は恩着せがましく『祈っています』と軽々しく言わないのではないだろうか」との思いが頭をよぎります。… 祈りにおいてこそ「不言実行」が求められるのです。

「偽善者たちは人に見てもらおうと、…祈りたがる。しかしあなたがたは彼らのまねをしてはならない」と主イエスは言われました。「むしろ隠れたところにおられるあなたがたの父に祈りなさい」と勧められます。[マタイ第6章5~8節]どんな内容を何時、どのように祈るかはその人と神との間の秘密です。親子であっても、配偶者であっても立ち入ることはできません。神に対する絶対信頼があり、この御方さえ知っておられればよいし、一番確かだと思っているからです。結びのさりげない一行にパウロの深い祈りを垣間見る思いがします。見せようとしたのではなくほとばしり出たのです。