2014年3月9日 きょうどう

山上の説教(本日の説教とは別の内容)

政所 邦明 牧師 

「さいわいなるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり。」

文語訳聖書(マタイによる福音書 第5章3節)

 

幸いを告げる言葉から、山上の説教は始まりました。疲れた者、重荷を負う者に主イエスは祝福を語られるのです。第4章23節で宣教を始められた主の様子が短く報告されています。「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べつたえ…」、つまり第5章から第7章に記してある説教を一言で言い表すならば、「御国の福音」ということになるでしょう。

信仰者でなくても、この説教に心を惹かれる人は多いはずです。人の生きるべき道が記してあると考えるからです。「現実には実行できなくても、理想は理想だ。到達すべき目標になる」と憧れを抱くことはあるでしょう。しかし、美しいが、実行不可能な目標が記されているだけなのでしょうか。

「弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスが口を開き、教え始められた」とマタイは申します。(5章2節)これを信仰者に当てはめるならば、主イエス・キリストによって罪赦された者に語られたということになるでしょう。自分の力で、ここに言われているようには生きることができません。赦しの力にひたすら頼る以外にないのです。しかし、赦された者は安穏としてはおれません。恵みによって赦しをいただいたからには、その恵みに応えて、生きる道を求めるはずです。その具体的な生き方を主イエスはこの説教の中で語ってくださいました。

大切なことがあります。それは、イエス様を信じて罪赦されたことを知った時、信仰者は、すでに「幸い」の中に入れていただいている点です。だから、その幸いを感謝し、喜んで、ますます神の祝福される道を生きるのです。

 

2014年2月23日 礼拝説教要旨

おびえるな

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記上 第16章14-23節

ヨハネによる福音書 第14章25-27節

 

中心聖句:「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルの心が休まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。」

(サムエル記上 第16章23節) 

                                   

「自分の蒔いたことは自分で刈り取らねばならない」と聖書にあります。サウルは自分の利得に走ったために、王位から滑り落ちることになります。今しばらくは王として振る舞うでしょうが、後は時間の問題です。神の前にはすでに決着がついてしまいました。

「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。」…サウルの惨めな有り様がそのように表現されています。王位を失う悔しさ、失いたくないと執着する心がサウルを苦しめたのでしょう。

「悪霊を神が送られるはずはない」と常識的にわたしたちは考えます。その意味はおそらくこうでしょう。サウルは自分の犯した罪の報いを骨身に染みて味わっています。神はそれをお許しになるのです。苦しみを通して、罪を認め、赦しを神に求めるようになるかもしれません。苦悩は悔い改めの契機にもなります。悔い改めるかどうかは、サウルにかかっているのです。

旧約聖書のヨブ記にはサタンがヨブを“ふるいにかける”ことを神が許された(第1章12節)とあります。攻撃に曝されても、悪霊もまた神のご支配のうちにあります。苦しみの時も決して神はお見捨てになりません。

サウルのもとにダビデが連れて来られます。ダビデは優れた賛美歌作者です。ダビデの作と言われるものが詩編にたくさん収められています。悪霊に襲われるとき、ダビデの詩がサウルの心を神に向かわせます。悪霊は神に決して勝てません。そのことをダビデの賛美歌はサウルに教えたのです。