2014年4月6日 礼拝説教要旨

「 まことの王 」

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記 下 第6章12-23節

マタイによる福音書 第2章1-12節

 

主題聖句:「主の箱がダビデの町に着いたとき…」  

サムエル記下 第6章16節

                                    

サウルに追いかけられてダビデが逃げまわっていた時も、イスラエルとペリシテ軍との戦いは続いておりました。再び戦闘が起こり、サウルもヨナタンも戦死してしまいます。全イスラエルは新しいリーダーを求めて、ダビデに白羽の矢を立てます。ヘブロンという町で、ダビデは王に就任しました。

 

しかし、神は新しい都を準備し、外国人のエブス人が住んでいた町エルサレムを選んでおられたのです。戦闘の末、ダビデはこの要害の町を陥れます。そして、エルサレムは「ダビデの町」と呼ばれるようになりました。

 

ルカによる福音書のキリスト誕生の記述に従えば、「ダビデの町」は出身地ベツレヘムです。ところがサムエル記下によるとエルサレムもまた「ダビデの町」なのです。この6章には神の臨在を表す「神の箱」がエルサレムに運ばれ、安置される経緯が書かれています。この町は確かに戦いに勝って、ダビデが手に入れた都です。しかし、神の箱が安置されたのは“神がこの町を占領された”ことを意味するのではないでしょうか。ダビデもその家来も神に用いられたに過ぎません。「聖なる山シオンでわたしは自ら、王を即位させた。」(詩編第2編6節)ダビデがエルサレムの主(あるじ)になっただけでなく、神がすべての真の王になられたことを表しているのです。

 

4月13日から受難週が始まります。エルサレムは主イエスが過越しの祭りの犠牲として十字架にかかり、甦られた場所です。①エルサレム占領と②神の箱の安置はエルサレムが、“どのような意味で神の都になるのか”を予め示しています。十字架で罪深い者を救ってくださることによって、神とその独り子イエス・キリストはわたしたちの真の王となってくださるのです。

 

2014年3月30日 礼拝説教要旨

 

「罪人が義とされる」

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記上 第24章1-23節

マタイによる福音書 第5章43-48節

 

主題聖句:「お前はわたしより正しい。…主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。」             

 (サムエル記上 第24章18節) 

                                   

ダビデを追いかけてきたサウルが用をたすために洞窟に入ってきました。同じ場所にダビデとその仲間がなりを潜めています。サウルを一思いに殺してしまう絶好の機会が訪れました。しかし、神がお立てになった王を手にかけることはできません。ダビデは思いとどまります。

 

洞窟を出たサウルを追いかけて、ダビデも外に出ます。そして洞窟の中で起こった一部始終を打ち明けます。ダビデの信仰と思いとはサウルにも伝わり、心を打たれます。そして、口をついて出たのが上記のみ言葉でした。

 

「お前はわたしより正しい」とまず言い、その次に「ダビデの善意が分かった」とサウルは続けました。この順番に注目します。何気なく言ったので、深い意味を意識してはいなかったかもしれません。しかし、神がサウルを通してわたしたち信仰者に大切な内容を語っておられると思います。

 

わたしたちの礼拝ではサムエル記のダビデの姿に重ねて、イエス・キリストのお姿を読み取っています。ダビデは確かに正しいのです。その正しさは嫉妬に狂い、理不尽な扱いをダビデにしてきたサウルを赦す正しさです。赦して救おうといたします。

 

受難節(3月5日~4月19日)に入って主イエスの十字架を思いめぐらしています。人間の罪に対して神は厳しく臨まれます。キリストの死によって人間の罪を処罰されるのです。罪と妥協のできない神の正しさを全世界に明らかにするのが目的ではありません。「罪深いものを赦して救う神の正しさ」を示されるのです。それこそが神の義です。サウルに対するダビデの振る舞いの中に、イエス・キリストの十字架の赦しを先取りして見る思いがします。

2014年3月23日 礼拝説教要旨

共に歩んでくださる主イエス

政所 邦明 牧師

サムエル記上 第21章1-15節

マタイによる福音書 第12章3-4節

中心聖句:「普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で…主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。」                          サムエル記上  第21章7節

 サウルに妬まれてダビデは逃亡生活をしなければならなくなります。死から逃れるさすらいの旅の始まりです。食べ物も武器も持たず、一人で逃げました。ある書物の題に『自由から逃走』というのがあります。それをもじって言えば『死からの逃走』です。死に追いかけられるのが、わたしたちの共通の問題です。

ダビデが最初に立ち寄った先は、祭司アヒメレクのところでした。神に祈り、助けを求めるためです。死という最大の課題に向き合うときに、まず神に対する態度をきちっと整えないで、どうして立ち向かえるでしょうか。

 

礼拝の後にダビデは祭司にパンを求めます。神に供えられた後のお下がりのパンがあり、ダビデはそれに与りました。本当は普通のパンが欲しかったのだけれど、古くなったパンしかなかった、仕方がないので我慢したのでしょうか。そうではありません。ダビデにとって「お下がりしかない」のではなく、「供えのパン」こそ、どうしても必要だったのです。命を落としそうな厳しい戦いに、神から力と命とをいただかなくて、どうして勝ちぬくことができるでしょうか。もっともふさわしい物をこの時、神はダビデに用意しておられました。死を乗り越える命は神が与えられます。だからこそ、主イエスは、日ごとの糧を、神に祈れといわれたのです。

 

「ただなくてならならぬ食物でわたしを養ってください。」(箴言第30章8節口語訳)神から与えられる糧でなくて、どうして死を乗り越えることができるでしょうか。

2014年3月16日 礼拝説教要旨

  憎しみに勝つ道

政所 邦明 牧師

サムエル記上 18:1-16

ヨハネによる福音書 15章12-17節

 

中心聖句:「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」

                                サムエル記上 第18章1節                                    

サウル王の息子ヨナタンとダビデとの友情をサムエル記はとても美しく描いています。その一方、サウル王はダビデを妬ましく思います。自分よりも華々しい武勲を立て、民衆から英雄のようにもてはやされるからです。“愛と憎しみ”いや“愛と妬み”の中でダビデが苦しみます。ダビデの姿は「人間」の普遍的な姿を表しているのではないでしょうか。“愛と妬み” に苦しまない人などひとりもおりません。理想的な友情も「嫉妬に狂う先王」に脅かされる苦しみもここには、描かれています。縄のようにある時は愛が、またある時は妬みが現れます。それがありのままの人間の姿なのでしょう。

 

愛と妬みとを抱え込んだ人間の歴史にイエス・キリストは入り込んでくださいました。「ダビデの子孫としてお生まれくださった」というのはその意味です。そのキリストは「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない」と言われました。ダビデとヨナタンとの友情は単なる好き嫌いを超えています。神が仲立ちとなり、契約を結んだと言われているのです。二人の愛は、キリストがわたしたちに与えてくださる契約を予め示しているのではないでしょうか。十字架を前にして最後の晩餐の時「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と主イエスは言われました。契約が結ばれるために十字架の犠牲がささげられました。キリストの赦しなくして、憎しみと妬みとに勝つ愛は与えられません。キリストの愛が妬みさえも乗り越えさせ、救ってくださるのです。