投稿者: matsuyama-alliance
2014年5月18日 礼拝説教要旨
苦闘としての祈り
政所 邦明牧師
サムエル記下 第13章20-39節
コロサイの信徒への手紙 第3章18-25節
主題聖句:「ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した」
サムエル記下第12章20節
ナタンを遣わし、ダビデの罪を神は暴かれ、責められます。するとダビデは神の前に崩折れ、悔い改めました。「主があなたの罪を取り除かれる」とナタンは宣言します。しかし、神の裁定はまことに厳しいものでした。ダビデ自身は死を免れるものの、「バト・シェバと関係してできた子供は死ぬ」とナタンから告げられます。そして、子供は次第に弱ってゆくのです。
「罪は取り除かれる」と神は言われました。であれば、「子供が元気になっても良さそうだ」と考えるでしょう。それが赦しの一番わかりやすい形のように思えるのです。「子供の癒しは罪の赦しの確証であり、印である」と考えるのは無理もありません。
「赦す」と神から宣言されても、“赦されている”とダビデに確信がなければ、“ほんとうに赦された”ことにはならないでしょう。ダビデは断食して必死で祈りました。祈っている間に「姦淫や殺人の過ちを犯すのではなかった」と悔やんだかも知れません。しかし、6日間の祈りにもかかわらず、7日目に子供は死んでしまいます。“赦し”と“癒し”とは別でした。
神のなさり方に反発し、くってかかることも、悲嘆にくれ、泣き明かすこともダビデはしませんでした。平然と、もとの生活に戻ったのです。
ダビデが求めたのは、神を信頼すること、赦しを確信することでした。その祈りの中で、神のなさる結果を受け入れました。子供の死は悲しみと辛さとをもたらしたに違いありません。しかし、恨みも不平もなかったはずです。祈りの中で、神の裁きを受けとめ、一切を神に任せたのです。
2014年5月11日 礼拝説教要旨
神に対する罪
政所 邦明牧師
サムエル記上 第12章1-15節
ルカによる福音書 第15章11-19節
主題聖句:「ナタンはダビデに向かって言った。『その男はあなただ。…なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。…』」
サムエル記下第12章7,9節
ダビデはウリヤの妻を寝とり、そればかりか忠実な部下ウリヤを殺させてしまいます。一つの罪を隠すために、さらに罪を重ねてゆきます。良心の疼き(うずき)を少しも感じることなく、罪を隠し通せるとでも思ったのでしょうか。神は侮られるようなお方ではありません。ダビデが悔い改めるようにナタンをお遣わしになりました。
一つの話をナタンは始めます。たくさんの羊を持っている男が来客のもてなしのために自分の羊ではなく、別の貧しい男がだいじに飼っていた一匹の羊を取り上げて、料理した話です。実際にあったのか、つくり話なのか、わかりません。一見ダビデの行なったこととは直接は結びつかないように思えます。 “自分のことを棚に上げ”、ナタンの話の中に出てくる富裕な男の非道な振る舞いにダビデは怒ります。「そんな無慈悲なことをする人間は死罪だ!」と思わず言ってしまいます。「ダビデのことだとわからないように遠回しに」ナタンが話したという面もあるでしょう。しかし、それよりも、だれでも自分の行動には無感覚になり、分らなくなるということでしょう。
ダビデの反応に対して「その男こそ、あなただ!」とナタンは切り返します。ダビデは自分の罪を知らなかったのではなく、認めたくなかったのです。しかし、王としての体面にしがみつくことなく「わたしは主に罪を犯した」(第12章13節)と悔い改めました。罪を犯した後の処理とは、言い逃れをすることではなく、罪を素直に認め、神に詫びることなのです。
2014年5月4日 礼拝説教要旨
「 罪の深さ 」
政所 邦明 牧師
サムエル記下 第12章1-15節前半
ルカ福音書 第15章11-19節
「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」
サムエル記下 第11章15節
これまでダビデの生涯をごいっしょに学んできました。主君サウルから妬まれ、理不尽な扱いを受けながらも、忍従する理想的な信仰者の姿を読んできたのです。そして国内をやっと平定し、外国との戦いに備え、安定した時期がダビデに訪れたかに思えました。しかし、11章には忌まわしいダビデの犯罪が描かれています。部下ウリヤの妻を寝とり、しかも忠実なウリヤを外国との戦線に送りこんで戦死させてしまいます。直接手をくださずとも、邪魔になったウリヤを亡き者にできたと思えたでしょう。ダビデの内側に潜んでいた闇が突如吹き出してきたのです。人の罪は誠に不気味です。
いったん罪を犯すと、それを取り繕うために偽り、さらに嘘で塗り固めねばならなくなります。罪の責任から逃れる唯一の道は、誤魔化すことではなく、素直に認め、神の前に悔い改めて詫びることです。やがてダビデは預言者ナタンの追求を受け、言い逃れできないところまで追い詰められます。そして降参してやっと「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」(詩編第51編5節)と罪を認めて、言い表すのです。
「隣人の妻を奪うな」「姦淫するな」「殺すな」…これらは神の絶対的な命令です。戒めを破るのは結局、命令をされた神をないがしろにすることに通じます。成功して気が緩んだから、ダビデが罪を犯したとは思いません。もともとこのような神に背く傾向を、だれでも持っているのです。罪は人と人との関係に終わらず、神との関係にまで及びます。しぶとい罪です。その罪から救われる道は、キリストの十字架以外にほかにあるでしょうか。