投稿者: matsuyama-alliance
2014年8月17日 礼拝説教要旨
視野を拡げて
政所 邦明 牧師
ヨナ書 第4章1-11節
マタイによる福音書 第12章38-41節
主題聖句:「お前は、…とうごまの木さえ惜しんでいる。…どうしてわたしが、…都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。…」
ヨナ書 第4章11節
ヨナ書は3ページほどです。一気に読んでみてください。悪の満ちた隣国アッシリアの首都ニネベの町に神は裁きを宣告なさいます。その使者として選ばれたのがヨナです。最初、神からのお召があった時、ヨナは嫌がって逃れました。さんざん神の民イスラエルを苦しめたアッシリアです。滅ぼされれば清々すると思ったのでしょう。逃げようとするヨナを連れ戻し、再びニネベの町に滅びを告げる器としてヨナをお用いになるのは神です。
宣教をしてみると、ヨナの予想に反して、ニネベの王は素直に態度を改めました。そして、人も家畜もみんな、悪の道から離れるように布告を出します。その様子をご覧になった神は、災いを下すのをおやめになりました。
裁かれるのをおやめになった神のなさり方はヨナには気に入りません。イスラエルの人々だけを〝ご自分の民〟としてお選びになったのです。外国のアッシリアに憐れみをかけられるのはおかしいと思ったのでしょう。ましてこの国はイスラエルの宿敵です。狭い〝選民意識〟にヨナは凝り固まっておりました。ヨナはひねくれ、神に対してふてくされるのです。
“あなたの神は小さすぎる”と言う言葉があります。ヨナは自分の小さい尺度で神を測りました。「わが思いは汝の思いと異なれり!」と神は言われます。慈愛に満ちた神を人間の枠内で捉えきることはできません。自棄(やけ)を起こすヨナに寄り添い、いろいろな手立てを用い、視野の狭くなったヨナを連れ出して、ご自分の大きさを神は見せようとなさいます。神に立ち返る悔い改めはニネベの町のみならず、ヨナ自身にも必要だったのです。
2014年8月10日 礼拝説教要旨
奇跡と癒やし
政所 邦明 牧師
イザヤ書 第44章24-28節
マルコによる福音書 第2章1-12節
主題聖句:「…人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
マルコによる福音書 第2章10節
ガリラヤの町々村々で主イエスは「神の国が来た」と言って福音を宣べ伝えられました。多くの病気の人が連れて来られると人々を癒やされ、悪霊を追い出されます。〝奇跡的〟に癒やされると言う現象が起こるのです。
人それぞれに抱えている問題は違うでしょう。健康、経済生活、人との不和などいろいろあります。困り果てて〝奇跡的〟な事態の好転、解決をもとめて主イエスのところにやってきます。中風の人を連れてきた4人は、体の麻痺を良くしてほしいとだけ願って、屋根を剥ぎ、床を主イエスの前に吊り降ろしました。“なりふり構わない”激しい行動です。そのような事までして主に願ったのは、中風の人の体が動くようになることだと思います。
この4人の行為の中に主イエスは信仰を見られました。そして「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃいます。「神の国が来た」とは自分の困窮が奇跡的に解決し、欲求が満たされることではありません。対症療法的に次々問題が解決したとしても、人間の根本に横たわる罪が赦されない限り、わたしたちは神の前に安心して立つことができません。最大の奇跡は主イエスが死から甦られたことです。主イエスの救いの業を通して罪が赦されることの証が〝主のご復活〟と言えるでしょう。奇跡中の奇跡は罪の赦しです。「神の国、すなわち〝神のご支配〟が始まった」と主はお告げになりました。それは病が癒やされ、悪霊が追い出される〝奇跡の時〝が来たことを意味しません。「救い主イエス・キリストと共に罪が赦される時代」が来たのです。わたしたちはこの罪の赦しにすべてをかけ、すべてを委ねてゆくのです。
2014年8月3日 礼拝説教要旨
交わりへの回復
政所 邦明 牧師
レビ記 第14章1-9節
マルコによる福音書 第1章40-45節
主題聖句:「…厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さいないように気をつけなさい。」
マルコによる福音書 第1章43、44節
主イエスがガリラヤの町々村々で神の福音を宣べ伝えると、たちまちこの御方の評判は隅々にまで広がります。ある重い皮膚病を患っている人が窮状を訴えて、主イエスに清めてもらいに来ました。この人はおそらく人の住まないような町外れに、社会から隔離されてポツンと暮らしていたのでしょう。この種の病気の人は、〝癒される〟とは言わないで〝清くされる〟となっています。それがこの病の特徴です。自分では症状が回復したと思っても、祭司に診察してもらい、治癒診断のあと、神殿に犠牲をささげて、はじめて、ユダヤ人社会へ入ってゆくことができるのです。病が癒えても、ほかのユダヤ人たちが自分を交わりの中に受け入れてくれるかどうか、この人は不安だったと思います。そのことをわきまえておられた主イエスは祭司にちゃんと手続きをしてもらい、誰からも咎められることなく社会に入って行くように重い皮膚病だった人の背中を強く押されたのです。
「ナザレのイエス様が皮膚病を治してくれた」と、この人が触れまわれば、宣伝効果は抜群かも知れません。しかし、一切を秘密にするように主イエスは言われました。病が癒やされることは「神のご支配(神の国)」が確かに来たことの証拠です。しかし、それがすべてではありません。〝癒やし〟を自己宣伝のための〝目玉商品〟にすることを主は厳に慎まれました。神の国が宣べ伝えられることが第一の目的です。最後は十字架と復活によって、人が罪から解放されることを主イエスは明らかにされます。その時までお急ぎになりません。明らかになる時まで救いの真理を秘密にしておかれるのです。