投稿者: matsuyama-alliance
2015年3月8日 礼拝説教要旨
悪魔への抵抗
政所 邦明 牧師
ペトロの手紙一 第5章8-11節
主題聖句:「…悪魔が、…だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」
ペトロの手紙一 5:8,9
人生そのものが戦いであるだけでなく、信仰に生きていく時も戦いは付きものです。しかし、信仰の戦いは固有の性質を持っています。それは①祈りにおける戦いであり、②神を拝むか、悪魔を拝むか、どちらか一つを選ぶ戦いと言えるでしょう。
「悪魔」などというと中世までの話で、現代人には〝非科学的〟でしょうか?しかし、すきあらば、神への信仰から引きずり降ろそうとする悪しき力が確かに働いているのをキリスト者は本能的に知っています。悪魔はどのような手を使ってくるかわかりません。確かに不気味です。しかし、イエス・キリストが罪にも、滅びにも勝利をしてくださっています。信仰者は恐れることはありません。その際にペトロは教会に次のように薦めます。
1.身を慎む。…もとの意味はお酒に酔わないしらふの状態を指します。沈着冷静、平常心を保つことでしょう。各自の気の持ちようではありません。信仰を持って不動の岩、神に確かな根拠を見出すのです。「主はわたしの岩、砦、…避けどころ、わたしの盾、救いの角」(詩編第18編3節)
- 目を覚ましている。…ゲツセマネの園で、目を覚まして祈るようにペトロは主イエスから命じられました。その戒めに背き、眠り込んでしまったのです。自分の失敗からすれば、ほかの人に偉そうに薦められた義理ではないでしょう。しかし、1.も2.も結局、「信仰にしっかり踏みとどまること」につながるのだと、あえて言わざるを得なかったのです。
2015年3月1日 礼拝説教要旨
謙遜を身につけよ
政所 邦明 牧師
ペトロの手紙一 第5章 5-7節
主題聖句:「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい」
(ペトロの手紙一 第5章5節)
2章は主人の身分にある人、奴隷の身分にある人、またそれぞれ家庭で夫と妻の立場にある人々への勧めでした。これは何もキリスト者だけに限ったことではなく、信仰を持たない人にも当てはまる倫理でしょう。
ところが5章に入りまして、まず長老たちへ勧めます。「神の羊の群れを牧しなさい。」(5:2)「羊の群れ」とは教会です。つまり教会内の秩序について扱っています。長老たち、すわなち、教会で指導的な立場にある人と若い人たち、すなわち信仰に入ってまだ日の浅い信者たちがお互いどのように接すればよいかペトロは薦めているのです。
長老たちは、自ら進んで、献身的に群れ全体の世話をするように求められます。この世で経験したことをたくさん蓄えているでしょう。しかし、世と世の欲の危うさと、信仰に立たないでこの世の知識に頼ったため、失敗に陥った体験も持っているかもしれません。先輩の信仰者たちにペトロが期待するのは、この世を愛するよりも神を愛して苦難を切り抜けた信仰を長老たちが後輩に伝えることなのです。
若者たちは自信過剰に陥り、年配者たちの信仰経験を軽く見る傾向にあります。「頑固で融通がきかない」と決めつけてしまいます。考えが浅はかなのです。教会での年長者と若い人とは互に謙遜になることを求められます。キリストが神であられたのに人となられたクリスマスに、キリスト者同士の謙遜の原点があるのです。
2015年2月22日 礼拝説教要旨
自らすすんで
政所 邦明 牧師
ペトロの手紙一 第5章1-2節
主題聖句:「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。…神に従って、自ら進んで世話をしなさい。」
(ペトロの手紙一 第5章2節)
ヨハネによる福音書第21章によれば、ティベリアス湖畔(ガリラヤ湖)で復活なさった主イエス・キリストはペトロに現れなさいます。そして、「わたしを愛するか」と3度も尋ねられるのです。3度聞かれたのでペトロは〝悲しくなった〟(21:17)とあります。「あなたを愛していることはご存知です」とペトロは答えました。3度愛するかと聞かれただけではなく、愛するのであれば、イエス様の羊を世話し、養うように3度も念を押されます。主イエスを愛するのと、このお方の羊たち、すなわち信仰者の群れ・教会の世話をすることとは切っても切れない関係にあると主が言われたのです。この出会いと会話は鮮烈にペトロの心の中に残り、その後の使徒ペトロの人生の目標を決定づけたことでしょう。その時のご命令を繰り返すように「神の羊を牧しなさい」と、仲間の長老たちに勧めます。
この課題は何もペトロひとりに限りません。教会の指導者全員に負わされたものです。信仰者はキリストの尊い血によって贖われた群れです。イエス・キリストによって罪赦され、救われました。この者は〝神の教会〟と呼ばれています。ペトロたち指導者のものでもありません。信仰者たちの勝手な思いから「自分たちのものだ」と主張することも許されません。
「キリストの支配と所有に入れた群れが教会である」と自覚すると、長老たちはどのように振る舞い、指導すべきかが自ずと見えてきます。キリストが望まれるように、キリストを信じる群れにふさわしく整えるのです。