信仰によって義とされる
三好 晴夫 牧師
ロ-マの信徒への手紙 第3章27-31節
主題聖句:では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
ロ-マの信徒への手紙 第3章27節
私たち人間は、誇りを支えに生きています。何らかの誇りがなくてはならないと思い、その誇りを生きる支えとしています。そんな大事な誇りにもかかわらず、「それは取り除かれました」と言われているのです。
今日の箇所に示されている「誇り」は、ユダヤ人の持つ誇りが想定されています。彼らユダヤ人は、律法を持っていること、割礼を受けていること、神の選びの民とされていることを誇りとしていました。「それは取り除かれました」と言われているのです。すなわち、誇りは外に閉め出されましたというのです。もう誇ることができなくなったのです。
それは、どういう方法によってそうなったのかというと、人間は律法を行うことによっては、もう神の前に義と認められることができなくなったのです。もし自分が律法を行うことができるならば、それはその人の自慢になりますが、人間にはそれができないのです。そういう方法ではなく、信仰によって、もう誇らなくてもよいようになったのです。
私たち人間が神に逆らい罪を犯していて裁かれてもおかしくなかったのですが、神が、私たちを裁かれるのではなく、御子キリストを私たちの身代わりにして裁かれて十字架で犠牲にされたのです。その救いの御業のゆえに、信じる者を神の前に義とされるのです。神の前に無罪とされるのです。ですから、もう自分の良き行いによって自分を誇ることはできませんが、そのように救いを成し遂げられたキリストを誇って生きるのです。