苦闘としての祈り
政所 邦明牧師
サムエル記下 第13章20-39節
コロサイの信徒への手紙 第3章18-25節
主題聖句:「ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した」
サムエル記下第12章20節
ナタンを遣わし、ダビデの罪を神は暴かれ、責められます。するとダビデは神の前に崩折れ、悔い改めました。「主があなたの罪を取り除かれる」とナタンは宣言します。しかし、神の裁定はまことに厳しいものでした。ダビデ自身は死を免れるものの、「バト・シェバと関係してできた子供は死ぬ」とナタンから告げられます。そして、子供は次第に弱ってゆくのです。
「罪は取り除かれる」と神は言われました。であれば、「子供が元気になっても良さそうだ」と考えるでしょう。それが赦しの一番わかりやすい形のように思えるのです。「子供の癒しは罪の赦しの確証であり、印である」と考えるのは無理もありません。
「赦す」と神から宣言されても、“赦されている”とダビデに確信がなければ、“ほんとうに赦された”ことにはならないでしょう。ダビデは断食して必死で祈りました。祈っている間に「姦淫や殺人の過ちを犯すのではなかった」と悔やんだかも知れません。しかし、6日間の祈りにもかかわらず、7日目に子供は死んでしまいます。“赦し”と“癒し”とは別でした。
神のなさり方に反発し、くってかかることも、悲嘆にくれ、泣き明かすこともダビデはしませんでした。平然と、もとの生活に戻ったのです。
ダビデが求めたのは、神を信頼すること、赦しを確信することでした。その祈りの中で、神のなさる結果を受け入れました。子供の死は悲しみと辛さとをもたらしたに違いありません。しかし、恨みも不平もなかったはずです。祈りの中で、神の裁きを受けとめ、一切を神に任せたのです。