「盗んではならない」
政所 邦明牧師
(今回読み切り:本日の説教と別の内容です。)
「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」
エフェソの信徒への手紙4章28節
わたしたちの教会学校(嬰児科・幼児小学中学科・成人科)では「成長」という教案誌のカリキュラムに添って毎週の学びを続けています。ここ4週間は十戒でした。「盗んではならない」は第8番目の戒めです。「殺すな」「盗むな」などの掟はことさら聖書から教えられなくても、わかりきったことのように思います。古代のイスラエルの国のみならず、どこの国にもありそうです。おおよそ人と人とが共に生きてゆく時、怒りにまかせて人を殺したり、欲しくなって盗んだりしたのでは共同社会が成り立ちません。そこでお互い同士の暗黙の了解・約束事として、自然発生的に、このような規制ができたと考えることもできます。
しかし、聖書ではこれらの戒めは神の断言的な命令として与えられます。所有はひとりひとりに神がお与えになったもので、その領分や境を神がお決めになっているという信仰があるからです。与えると言ってもそれは「貸し与えられたり、任されたりするものにすぎず、根底には「すべては神のもの」と言う信仰があるのです。「盗み」は神のものを奪うことを意味します。
暴力による強奪、法スレスレのところ相手を巧みに騙し、かすめ取ることだけを禁止しているのではありません。勤勉に働き、自活を勧めるだけではなく、上記のパウロの勧めのように「困っている人々に分け与える」ために働くことを求める愛の戒めなのです。随分と広がりを持つ神の命令です。