「いつも用意して」
フィリピの信徒への手紙 4章10節
政所邦明牧師
主題聖句:「今まで思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」
フィリピの信徒への手紙4章10節
この手紙の第2章にエパフロディトという人がフィリピの教会から来たと記されています。おそらく贈り物を携えてやってきたのでしょう。その御礼をしたためるのが、この手紙執筆の第一の動機だったと思われます。「わたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは非常に喜びました。」とパウロは書いています。「ついにまた」とありますから、しばらく物をやり取りする関係が途絶えていたのでしょうか。冬枯れの草木が、春になると芽吹き、花を咲かせえるように、パウロへの愛が再び花開いたと言うのです。「表してくれた」を「花を咲かせる」と訳している人がいます。(岩隈直) 人間の愛にはしばしば失望させられます。移ろいやすく、当てにはならないからです。花開いたかと思えば、しぼんでしまい、そして枯れる。「フィリピの教会の人々の心は、どうせまた変わる」とパウロ先生は冷ややかに見ていなかったのでしょうか。しかし、人の愛を直接見るのではなく、フィリピの教会の人々に働きかけておられる神の愛をパウロは信じておりました。「主にあって非常に喜んでいる」と申します。神の愛は裏切ることはありません。また主イエス・キリストのご愛を信じているからこそ、限界はあってもキリストの愛に促される人の愛を信じることができたのです。それまで、厚意を贈り物に託してパウロのもとに届けたいという願いはフィリピの人々にもありました。ただ機が熟していなかっただけです。送るのにもっともふさわしい時を備えてくださるのも神なのです。