2017年3月26日 礼拝説教要旨

ゲッセマネの祈り

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第14章32-42節

 

主題聖句:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

マルコによる福音書1436

 

 

 主イエスは弟子たちと最後の晩餐の時を持たれた後、ゲッセマネの園に行かれました。そこに着くなり、主イエスは弟子たちの前でひどく恐れてもだえ始められました。ご自分が死ぬばかりに苦しいから一緒に祈ってほしいと弟子たちに語られ、ご自分の心の中の苦しみを隠されませんでした。

 

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと、上記の言葉で祈られたのです。

 

このとき、主イエスは、何を苦しんでおられたのでしょうか。「この杯」(神の裁き)を自分から取りのけてくださいとの祈りはどういう意味の祈りなのでしょうか。私たち人間はいつか死を迎えます。そして死んだ後、一人一人神の前に自分の行いに対して神の裁きを受けなければなりません。しかし、私たち人間はそんなに悪いものとは思わず、自分が罪深いかを知りません。その結果として神の裁きのあることも知りません。ですから自分たちがいつか迎える死をなんとなく恐れてはいても、死後の裁きについて意識できないのかもしれません。意識できなくても私たちはそのままなら裁かれてしまいます。そのようなよく分かっていない私たちの姿を主イエスはご存じだから、私たちの受けなければならない神の裁きをご自分が背負おうと苦しみ祈り、私たちを救うために十字架に進まれたのです。

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